上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

旅芸人一座

 昨日は、我が家より4キロほど上にある、山麓の公園に行きました。
 公園の道を歩いて行くと、色鮮やかに染まった紅葉が、あちこちの木々の枝から、音も無く散っていました。
 ほんの少し、風はありましたが、散りゆくは、その風のせいでは無くて、紅葉自身の決意でしょう。
 命を終えた紅葉が、親の枝に別れを告げて、自ら散っていくのだと思います。
 ですから、時折、風が途切れても、相変わらず、森の中の高い梢から、次から次へと、紅葉が空を舞い降りて行きます。
 偶に、少し強い風が吹くと、路上の落ち葉は、小さな生き物のように、群れをなして、右、左と、素早く動き、まるで、赤、黄色、赤橙色の制服を着た兵隊さんの行進のようです。
 私は、童話の国の王様です。命令一下、足下の兵隊さん達は、行ったり来たり、一糸乱れずに行進しています。
 思わず、その動きが面白く、惹かれたまま、暫く、そこに立ち止まってしまいました。
 なおも歩いて行くと、道の両脇に吹き寄せられた、帯のように続く紅葉、ほんとうに色鮮やかな絨毯です。
 毎年、歩いていた筈なのに、この絨毯に気付かなかったのでしょうか。
 「からくれないに 水くくるとは」と言う、百人一首の歌を思い出しました。
 午後、平日の公園、誰も居ません。
 紅葉に飾られた道は、ずっと遠くまで続き、やがて、遙か先の森の入り口で消えてしまいます。
 その遠くまで続く一本の道を、夏の夕方、小さかった私は、母に手を引かれ、何処までも歩いて行きました。
 あれは、多分、私が小学一年生の頃だったと思います。
 お盆の時期になると、母は生まれ故郷の荒砥村に帰るのが、楽しみだったのです。 
 当時、交通の便は無かったですから、故郷に行く時、母は、まず、高田町の自宅から、上電の駅まで歩きました。
 それから、ローカル線の小さな電車に乗り、田舎の大胡駅まで行ったのです。
 大胡駅を降りると、もう周りは、すっかり田舎の景色でした。
 駅前から、細い田舎道が、延々と続いていました。
 畑や桑畑、雑木林の間を何度も何度も曲がりながら続く道、母に手を引かれる私には、まさに、果てしない道に思えました。
 母と私は、黙って、何時までも歩き続けました。
 片手にお土産を持って歩く母は、もっと大変だった。
 でも、実家に帰る嬉しさで、心は十分に満たされていた事でしょう。
 日は落ちてしまいましたが、夏の事、まだ、空は明るかったです。
 いつも、もう歩けないと思う頃、やっと、森と人家が見えて来ました。 
 母の故郷を思い出す時、この長い長い、田舎道を忘れる事はできません。
 大きな田舎屋に着くと、祖父母が温かく迎えてくれました。
 火が燃えている囲炉裏の周りで、母も私も、祖父母も、叔父さん達も、みんなが車座になって、楽しくお話をしていました。
 小さかった私は、囲炉裏の周りに座っていると、とても安心感を覚えたものです。
 燃える火は、何か人々の心を結びつける働きがあるようです。
 今でも、何かの折りに、燃える炎を見ると、母の故郷の囲炉裏を思い出します。
 もう囲炉裏なんて、かなり年配の人でも、見た事もないでしょうね。
 翌日の夜になると、村のお祭りに行きました。
 毎年、お盆のお祭りが、村の鎮守様、その高台で行われるのです。
 周りは真っ暗な森、一際明るい舞台、旅芸人一座が演じる時代物の劇、それは今でもよく覚えています。
 とは言っても、内容は、小学生ですから、よく分かりませんでした。
 チャンバラをしている様を、よく覚えているという事です。
 上州の村ですから、恐らく、国定忠治か何かの劇だったと思います。
 その旅芸人一座の座長は、まだ若い女の人でした。
 劇が終わると、座長は股旅姿のまま、舞台中央に立ち、御礼の口上を述べました。
「来年、また、お会いしたいと思います。〇〇俊子一行、どうぞ宜しくお願い申し上げます」  
 小さな私でしたが、この口上は、不思議に今ですら、覚えているのです。
 帰りは、もう眠くなった私ですが、人並みに揺れる夜道、母の後を必死に追い掛けたものです。
 途中、大きな沢があり、底の方から、激しい水音がして居ました。
 その真っ暗な底は、何か空恐ろしい感じがして、近くに寄る事はありませんでした。 
 毎年、お盆の時期になると、行っていましたが、小学校を終える頃には、私も他の事に興味を持つようになり、段々と行かなくなりました。
 ずっと後、高校生の時に、一寸、用事で荒砥村の祖父母の家に行きました。
 そしたら、もう、あの旅芸人さん達は来ないとの事でした。
 昔は、ああいう旅芸人一座が、村から村へと廻っていたものでしたが、時代の流れで、それも消えて行ったんですね。
 さて、荒砥村は、母の故郷だったのに、子ども心に、小さな私は、祖父母の家は、あく
まで、祖父母の家と思って居ました。
 ですから、ずっと、その後も、私は、無意識に、母の家だとは思ってなかったのです。
 母は84歳の時、具合が悪くなり、入院しました。    
 でも、なかなか元気で、行くと、病院の中を散歩していました。
 それを見て、私は、これなら、その内、良くなるだろうと安心したものです。
 半月位して、見舞いに行くと、母は、何とベッドに太いロープで縛り付けられていました。
 私を見るなり、母は叫びました。
「おおい、これを外してくれよ」
 これは、どう言う事でしょうか。
 看護婦さんに聞くと、母が余り病院内をウロウロするので、こうしました、との説明でした。
 もしかすると、老人性の躁病だったのかも知れません。
 でも、余りにも、この残酷な措置に、私は、火の様に湧き起こるものを感じました。
 しかし、此処で何か言えば、この意地の悪い看護婦は、また更に、ひどい仕打ちをするに違いないと思いました。
 それで、黙っているしかありませんでした。
 仕方なく、ベットの脇に立っていたら、母の弟、叔父さんが見舞いにやって来ました。 
 すると、母は、弟の叔父さんに、大声を上げて言ったのです。
「〇男よ、あたしをここから出してくれ、泉沢の家に連れて行ってくれ」  
 泉沢は、母の生まれた家です。
 母の言葉を聞いた瞬間、私は、長い間の誤解に気付きました。
 泉沢の家は、祖父母の家では無くて、母の育った家だったのです。
 母は、あの家で生まれ、育ち、暮らしていたのです。
 歳を取り、病気になった母は、もう必死で、あの生まれた家に戻りたかったんですね。
 請われた叔父さんは、困った表情でした。
「そういうわけには行かないんだよ。ここの医者が決めたんだからさ」
 自由を奪われた人間位、悲惨なものは無いでしょう。
 今思いだしても、情けない自分に腹が立ちます。
 さっさっと病院を出てしまえば良かったのです。
 病院に入院した日、あの看護婦が言いました。
「ここは養老院では無いので、なるべく早く出てもらいますからね」
 病気の治療はするが、老人の介護に使われては困る、という意味です。
 それは分からなくも無いが、何とも、温か味の無い病院でした。  
 病院は、金が儲かれば良い訳です。
 だから、今も医者と病院は、大嫌いです。
 母は、その翌年、老人ホームに入所しました。そうして、約一年後、窓辺に見えるアカシヤが満開の頃に、亡くなりました。
 ですから、とうとう、一度も、母は、故郷泉沢の家に帰る事はありませんでした。
 恐らく、母は、子どもの頃を過ごした、あの囲炉裏端に戻りたかったのだろうと思います。
 もう歩けなくなっていましたが、私の車に乗せて、行けば、行けたと思います。
 でも、そうしなかった、仕方ない、そう言う息子だったのです。
 母が亡くなってから、何かの折り、遠く続く道を見ると、母に手を引かれている、小さかった私の姿、また故郷の田舎道を思い出します。
 そうして、暗い鎮守の森、あの華やかな舞台を思い出すのです。
 さて、あの旅芸人さん達ですが、どうしたかなあ、と思って居ました。
 何と、それから40年後、私は、愛知県のホテルで、旅芸人一座と再会する事が出来ました。
 勿論、あの当時の、泉沢の旅芸人さん達ではありません。
 聞きましたら、今は、村では無くて、全国のホテルを廻っているとの事でした。
 見ていると、ステージの上で、ヤクザ姿の女性が、振り回す脇差しが、キラリと光りました。
 その光は、あの懐かしい、鎮守の森の舞台で見たものと、全く同じものでした。



俳句


どこまでも 道は続くよ 田舎道


自転車に乗れる

 テレビで中年の婚活番組をやっていた。
 50歳位の男性が、何度も、その婚活パーティに出て、頑張っているらしい。
 でも、なかなかうまく行かず、かなり苦悩している。
 雑誌などでも、中年の婚活記事が載ってる事があるから、婚活は、中年世代の主要テーマなのかも知れない。
 この婚活に参加する人は、離婚後の人、全く初めての結婚という人、様々である。
 動機としては、老後の生活で、伴侶が欲しい、と言うのが、最大との事。
 これは、分かりやすく言えば、歳取って倒れたら、介護してくれる人が欲しい、死んだら喪主になって欲しい、と言う事だろう。
 であるならば、婚活などと言うよりも、単なる、老後のための介護職員募集の方が、よほど明確で良いと思うのだが。
 さて、恋愛というのは、若き日の旺盛な性欲のため、極度に異性を美化してしまう、単純なる錯覚現象である。
 しかし、この錯覚により、素敵な?異性と、ずっと毎日、一緒に居たいと熱烈に思うようになるから、結婚したいと思うのである。
 だから、若い男であれば、何も考えず、ただ、もう夢中になって女性と結婚するのが普通だ。
 何に夢中になるって?
 それは言わずと知れた事。
 若い男は、女の綺麗な身体、具体的には、子宮しか見えていないのです。
 だからこそ、10年も経つと、殆どの男は、大きな溜息をつきます。
 もう少し、落ち着いて、相手の女性の事を、色々と、よく見たり、調べたりすれば良かったなあ、と後悔の塊になります。
 でも、それで良いんだと思います。
 神様が、そもそも、男と女を、その様にお作りになったのですから。
 即ち、がむしゃらに突進する若い情熱があるからこそ、結婚できるんですよ。
 ですから、若い情熱を失った中年の男性女性は、当然ですが、結婚に踏み切るのは、なかなか大変でしょうね。
 歳を取ってるから、性欲よりも、どうしても、色んな情報を思い浮かべてしまいます。
 即ち、美しいロマンよりも、世俗の計算能力を発揮してしまうのです。
 相手の財産はどの位かな? この人の年収は? 両親の遺産は? 親類は、どんな人が居るのかな、等々、考えたら、もう結婚は決まらないと思います。
 もう十数回、婚活パーティに出たけど、相手が決まらないという人が居ましたが、この人は、恐らく、永久に駄目でしょう。  
 多分、高望みしすぎているのだと思います。 
 こうした人は、相手への条件を下げる事が必須です。
 具体的には、相手に望むのは、唯一つだけにします。一つのみ。後はどうでも良いとします。
 例えば、美脚であれば、顔の方は史上最強の醜女でも良しとします。
 観点の例としては、括れがある、歯が全部ある、手の指が長い、眉毛が濃い、毛深くない、目が綺麗、爪が綺麗、足が小さい、がに股では無い、運転出来る、鼻の形が良い、スリム、唇が綺麗である、スカートが似合う、虫歯が無い、自転車に乗れる、卵焼きが出来る、など。
 この中で、一つでも一致したら、もう飛び込み自殺するつもりで結婚を決意すれば、相手の合意を得る事が出来ると思います。
「でも、自転車に乗れるだけでは、とても、結婚は、決心出来ないです」
 何だって? それじゃあ、厭なのかい?
 だったら、もう結婚なんて考えない事だね。
 結婚なんてしなくても、どうと言う事ないよ。  
 歳取ったら、病気になり、部屋で孤独死すれば、いいんですよ。それだけの事。
 さて、結婚は、全くの他人同士が、一緒になるのですから、本来、容易ではないのです。
 偶然、波長が合う人と、一緒になれれば、最高の幸運と言うべきです。
 私はと言えば、老妻と結婚する時、何も考えなかったですね。
 ですから、もう少し、考えていればなあ、と思う事は、以前だと、頻繁にありました。
 でも、此処まで来ると、もう間違いなく、死ぬまで一緒に居ると思います。
 だから、結婚したら、諦めが肝心になるんだと思います。
 結婚後も、高望みを続けるのでは、余り、良い将来は来ないと思います。
 私の場合ですが、料理は出来ない、掃除は嫌い、物の整理は出来ない、金は全部すぐに使い切る、服を着たまま布団の中に入って寝る、高速運転をする、物の扱いが乱暴、水道栓をすぐ壊す、私よりも毛深い、破れた下着を平気で着てる、これが現実と言うものです。
 でも、すごく健康で駆け足が早いので、これでいいと、満足しています。
 まあ、恋愛の熱が冷めて、よーく相手を見れば、みんな、大したことは無いと思うよ。
 婚活のオジさん、胸毛のある女は、情が深いって言いますから、そう言う女を目指して、頑張って下さいね。
  


俳句


美人でも 熱が冷めれば ただの人



反射運動

 若い時、柔道をしてたから、それなりに体重はあった。
 従って、腹も出ていた。最大時、腹囲は100センチ位。
 それで、中年になり、運動を止めたら、また、太った。
 これではと、食事量を減らしたら、以前程度には戻ったけれど、それでも腹は、まだ出ていた。
 でも、50代の頃は、仕事が忙しかったから、腹が出てる事は、百も承知していたが、特に対策は出来なかった。する暇が無かった。
 退職してから、痛風対策もあり、減量したので、腹は大分凹みました。
 ところが、痛風が治まると、喜んで普通に食べ始めたから、忽ち、元に戻ってしまいました。
 それから、再び、腹を少し凹ませなくては、と考えるようになりました。
 偶に、顔を洗う時、鏡で腹を見ると、これでは、到底、美女に縁は無いと思いました。
 そこで、数年ほど前から、改めて、暇に任せて、腹を凹ませる対策を考えました。
 ですが、もう人生残り少ないので、食事制限はしたく無かった。そこで、精神的な方法を採る事にしました。
 昔の、偉い人が、習慣こそが人を作る、と言ったのにヒントを得たのです。 
 即ち、腹を凹ませる事を習慣にすれば、やがて、腹は凹む筈だという事です。
 まず、最初は、朝の運動をする時、意識的に腹を凹ませました。これを20回程度。
 その内、姿勢を良くすると、長生きすると聞きましたので、腹を凹ませると同時に、胸を張るようにしました。
 これが、なかなか優れものでした。
 実行すると、気分も良くなるし、実際、気のせいか、腹も凹んで来たように思えました。
 そこで、体操の時だけで無く、パソコンを打っている時も、意識して、腹を凹ませ、姿勢を良くするようにしました。
 姿勢が悪くなってるなと、気付いたら、即、実行します。
 姿勢を張る動作は、二回連続して行います。 
 その結果、以前と比べて、格段に疲れを感じなくなりました。
 前は、ディスプレイを睨むように、少し猫背位で構えていたのです。姿勢が悪かったから、30分もすると、疲労を感じたものです。
 今は、三時間位打っても、疲労は、ほんの少し感じる程度です。
 ブログは、1時間半位ですが、もう疲れを感じた事はありません。
 さて、家に居る時は、意識的に出来るのですが、これが、外出してしまうと、忘れてしまい、なかなか腹を凹ます事が出来ませんでした。
 いつも、実行していなければ、習慣にはなりません。
 それで、作戦を立てました。
 即ち、外に出て、美人に会ったら、すぐに腹を凹ます事にしました。
 書店で立ち読みしてる時でも、側を美人が通ったら、連続二回、腹を凹ませ、姿勢を張るのです。
 この作戦は大成功でした。
 因みに、美人の範囲は、まずJKは全て。若い事は美しいのです。
 それ以外は、パッと見で、瞬時に判断します。
 店内を歩いていると、結構、美人は居るものです。ですから、始終、腹を凹ませ、姿勢を良くするようになりました。
 姿勢を良くすると、自惚れですが、何か若々しくも見えるようです。
 大抵の老人は、皆、前屈みで、それで一層、老けて見えるのだと思います。
 この成功に味を占めて、また別な事を始めました。
 それは、美人を見たら、例の反射運動をするのですが、同時に、昨夜、読んだ英語の一節を思い浮かべるようにしました。 
 少しでも、フレーズ記憶の定着率を高めるためです。   
 これも大当たりでした。
 何度も繰り返す事が出来て、フレーズの記憶は、相当、強固になったと思います。
 この方法で、今のところ、体重は減りませんが、腹は確実に矯正されて来ました。
 食事制限もしないし、美人を見れば済む事なので、大変楽な方法で、かつ効果なものです。
 何でも、対策を考えて、実行すれば、それなりの効果があるものと、実感しました。
 腹が出て、お困りの方は、実践される事をお勧めします。
 さて、良い事ばかり宣伝して来ましたが、何事も、一長一短です。
 英語のフレーズを思い出す訳ですが、すぐに出て来た時は、特に支障はありません。
 でも、いつも、そうとは限りません。   
 なかなか思い出せない時もあります。
 すると、思い出すのに夢中になり、前から来た人と、危うく、ぶつかりそうになった事が、何度もありました。
 この解決策ですが、すぐに思い出せないと分かったら、通路脇へ寄って、立ち止まり、そこで思い出すようにしました。
 もう一つの悩みは、なかなか難問でした。
 美人を見たら、腹を凹ませ、胸を張ると言う、この動作ですが、ある時、入り口のドアの前で、それを実行しました。
 そしたら、ガラスに映っている、私の姿が、全体的に、かなり品悪く、見えたのです。
 何と言うか、腹を凹ませ、同時に胸を張ると、その動作は、一寸、見ると、何か下半身を前後に動かしているようになるのです。
 何度か、試しましたが、余り上品な動作には見えませんでした。
 この動作は、どうやら、男の本能動作にも繋がっているようで、気分良く感じたのは、実は、その関係があったようです。  
 簡単に言えば、私は、美人が側を通る度に、二回、腰を振っていた事になります。
 これには参りました。
 それで、胸を張るのは止めて、腹だけ凹ますようにしました。
 そうすると、腰が、一応、余り、外目には、動いたように見えなくなるのです。
 でも、そう思っても、いざやるとなると、なかなかうまく行きませんでした。
 美人が来ると、どうしても、無意識に、姿勢云々よりも、腰を動かしてしまうのです。
 もう半年位やって来ましたので、すっかり習慣になってしまったようです。
 そこで、修正は諦めて、今は、美人を見たら、それとなく、違う方向に身体を向けてから、ゆっくりと反射運動をするようにしました。
 これだと、美人を見て、腰を振ってるようには見えませんから。
 でもまあ、利点の方が大なので、この習慣は、当分続けていくつもりです。
 数年後には、腹は、全く凹んで見える事を夢見ています。


追記
 姿勢を良くすると、胃の調子も良くなるようです。
 また精神的にも落ち着きます。
 それに、女性の方なら、胸を張れば、おっぱいも大きく見えるので、貧乳の方は、是非、実践されたらと思います。
 昔、プロレスラーの力道山が、対戦相手のスタミナを、その姿勢で判断したと言う話があります。
 即ち、姿勢の良いレスラーは、スタミナがあり、力も強いそうです。
 と言う事で、腹の出てる人も、いない人も、是非、胸張り運動をやってみて下さい。


  



俳句


早朝の 車のガラス 冬来たり



年の暮れ

 今朝、目が覚めたら、まだ5時半位だった。
 通常、8時間半位は寝る事にしているので、目は覚めたが、そのまま布団の中で、仮眠していた。
 現役の頃は、眠たかろうが何だろうが、6時には起きなくてはならなかった。
 このまま、寝ていられたら、どんなにか、幸せな事だろう、と、毎回思ったものだ。
 それで、退職してからは、特に、何か用事が無ければ、6時半位まで、布団の中で朝寝を楽しむ事にした。
 天井を見て、ボーッとしてたら、急に、もう歳の暮れだなと思った。
 来年は、また、歳を取る事になる。
 70代は、この分だと、まだ体力もありそうだし、知的能力も、それほどの衰退は無さそうなので、なかなか素晴らしき70代を過ごせそうだ。
 でも、80代になると、どうかなと思う。やはり、それなりの衰えが来ると思う。
 平均寿命が延びたとは言え、80代というのは、やはり、人生最後のホームストレッチなのだ。
 出来れば、大病が来ないことを祈りたいものだ。
 姿勢の良い人は大病しないと言うから、今後は、どんな時も、姿勢を良くして生活しようと思う。
 とは言え、人生、すべて天命だから、従容と対処するしか無い。
 そんな事を考えていたら、どう言う訳か、不意に、中学時代の先生方の事を思い出した。
 当時、我が学年は、4クラスあった。全160人。
 生徒は、戦中、戦後の生まれだから、史上最低の出生数である。
 何しろ、男は、皆、兵隊さんとなり、戦争に行って居なかったから、新生児が産まれようが無かったのだ。
 新一年生の先生方については、自分の担任以外、もう忘れてしまった。
 でも、卒業学年である、三学年の先生方は、今も、はっきりと記憶している。
 それで、どうしたかなあと、思い出したら、何と、もう、全員亡くなって居た。
 その事実に、今朝まで、気付かなかった。
 私が古稀だから、考えてみれば、至極、当然のことではあった。
 1組担任のK先生は、4年位前に、確か94歳で亡くなった。国語の担当だった。
 私は1組所属でした。
 白皙の風貌は、さすが武士の末裔と思わせるものがあった。
 師が72歳頃、母校で偶然、お会いしたが、その時の言葉は、今も記憶にある。
「君、分かるかね。我々老人はだな、もう明日とか、これから、と言う言葉は無いんだ。あるのは過去だけなんだ」  
 その日から、22年後に、K先生は亡くなった。
 2組の担任は、T先生で、海軍兵学校出身の秀才であった。後に、高校に移り、校長で退職した。この先生のお陰で、数学が出来るようになった。 
 ただ、秀才にありがちな傾向で、人情的なものは、殆ど感じた事はなかった。
 朝、挨拶しても、生徒に挨拶を返す事は一度も無かった。
 ひよこの中学生など、眼中にも無かったのである。
 この先生も、3年位前だか、92歳位で亡くなったと思う。
 3組担任は、Y先生。
 英語の先生だが、教科的な実力は、イマイチだった。でも、純粋な人で、退職してから、地域の活動で何度か、お会いした。
 人間的には、十分、温かみのある人だった。
 ある年から、年賀状が来ない、と思っていたら、亡くなって居たらしい。
 ある時、知人から亡くなった事を教えられた。新聞の訃報に気付かなかったのだ。
 だから、亡くなられた歳は、不明である。
 多分、5年前、85歳位だと思う。
 4組担当は、H先生。理科担当の女性。
 もう私が中学の時から、立派に、お婆ちゃんの風貌であった。確か、あだ名も、それだったと思う。
 薬剤師の学校を出たらしいが、昔は、教員になった方が待遇が良かったようだ。 
 理科は得意だったから、その授業も記憶にあって良い筈だが、思い出しても、何も浮かんで来ない。
 まあ、人間的な波長が余り合わなかったのかも知れない。
 100歳で、3年前位に亡くなった。
 随分と長生きしたものだ。確か、姪あたりが喪主になっていた。
 他に、担任外で、英語の若い先生がいたが、彼も、数年前、亡くなった。
 実に、分かり易い授業で、中学生の学力レベルをよく熟知した授業だった。
 人付き合いが上手で無くて、高校に移ったが、余り出世はしなかったようだ。
 確か、亡くなったのは、82歳位だと思う。
 中学時代を通して、一番印象的な先生は、やはり、一年時の担任である。
 中学での最初の担任という事もあるが、人間的な波長が合ったのだと思う。
 まだ、ご存命だと思うが、85歳位かも知れない。
 こうして思い出すと、個々の先生の元気な姿が、一枚一枚、写真のように脳裏に浮かんで来る。
 あんなに若々しく活動していたのに、もう、全員、亡くなってしまったとは。
 人生は本当に短いものだと、改めて感じます。
 時が来れば、人間は、皆、例外なく、亡くなると言う事ですね。
 私も、勿論、その例外ではないから、確率的には、父と母の平均である、90歳位が、人生のゴールかも知れない。
 それまでの約20年間だが、父が罹った、大腸癌、胆嚢炎に注意すれば、何とか、90歳に到達出来るのではないか、と思う。
 今現在は、特に、何も悪い所は無い。
 それに、心臓と脳だけは、かなり自信がある。
 平時の心拍数が55位と、少ないので、長生きすると言われています。
 また、生まれてから一度も、頭痛と言うのを経験したことが無いです。
 なので、心臓麻痺、脳内出血で亡くなる事は、無いと思います。
 ですから、男の、最高の夢である、腹上死は願っても出来ないようです。
 となれば、あとは、今後の暇つぶしをどうするかが、一番の課題となります。
 青井みたいに裸の絵を描いて、若いモデルと楽しくやりたいけど、絵は全く描けないから駄目ですね。
 それと、このブログですが、20年間も続けることは、有り得ませんね。
 今月で、半年ですが、もう大分、飽きて来たから、一年続くか、どうかすらも、怪しい位です。
 でも、ピチピチギャルが応援してくれれば、調子に乗って、このブログ、永く続ける事が出来るかも知れません。
 まあ、私も古稀で贅沢は言えないから、応援してくれる方は、元ピチピチギャルでも、いいですよ。
 但し、多少の括れと、まあまあの美脚は、必須条件でお願いします。
 それさえあれば、後は目を瞑って、大切にして、下にも置かず、抱っこしますよ。
 えっ、それも、全然、無いんですか?
 それじゃあ、家の老妻と、全く同じですよ。
 それだったら、もう十分、間に合ってますから、わざわざ、お出で頂かなくとも、結構でございます。


    


俳句


懐かしき 先生方は 黄泉の国



モンパルナスのキキ

 囲碁は大学一年の時、覚えた。
 その後、40歳位まで碁会所に通ったりして、まあ、人並み程度に熱中していたものだ。
 やがて、仕事が忙しくなったから、段々と、囲碁から遠のいてしまった。
 それでも、時間があれば、本屋で囲碁の雑誌を立ち読みしたり、日曜の囲碁番組などを見たりはしていた。
 もう自分で対局する事は無かったが、囲碁への興味は失っては居なかった。
 ところが、退職して、暇な時間が出来たのに、殆ど囲碁を打つ事は無かった。
 気付くと、既に、囲碁への興味を失っていたのである。
 何時だったか、公園脇の老人センターに行った事がある。
 どんな施設なのか、試しに見学に行ったのである。少し早過ぎたと分かったが。
 それで、その施設の中に、碁会所があった。
 それで、一寸、囲碁を打つ気になった。
 ところが、囲碁に負けた相手が怒り出したり、文句を言ったりしたので、アホらしくなって、センターに行くのをやめた。
 その時が、我が人生で、囲碁を打った最後の時だったと思う。 
 だから、最近は、先日の、井山裕太さん七冠、の記事を見ても、その内容を読む気にもならなかった。
 それにしても、何かに対する興味とは面白いものである。  
 あんなに熱中してた時代があったのに、今は、何も感じないのである。
 我ながら、実に、不思議である。
 アマチュア無線の方は、未だに少しだけ、興味は残っている。
 元々、工作が好きだから、全く、興味を失う所までは、まだ行ってない。
 それでも、最近の電離層の状態が悪くて、交信が出来ないから、トランシーバに手を触れる機会は、ひどく少なくなっている。
 麻雀も学生時代にやる機会は、いくらでもあったが、何故か、熱中する事は無かった。
 パチンコも、一時期だけ、二ヶ月位か、その後、一切、興味を感じた事は無い。
 競輪、競馬、ボートもやる機会はあったが、したいとは思わなかった。
 そもそも、金儲けに興味が無かったからかも知れない。
 ところで、この、好きとか、興味とか、これは、一体、何なのだろうか。  
 例えば、私はアマチュア無線が好きだが、どうして好きなのか? と、問われた時、明確な答えが思い浮かばない。
 気付いたら、アマチュア無線に熱中していた、と言う事だから。
 どうも、熱中するのに、理由は無いのかも知れない。
 でも、アマチュア無線のお陰で、人生が楽しかったから、興味とは有り難いものである。
 煎じ詰めれば、それに対する「興味」とは、「欲」と言っても同じことだ。
 アマチュア無線への興味と言うのは、電子工学や通信工学をもっと知りたい、と言う欲でもある。
 人間は欲の塊などと、言うけれど、それは、また、興味の塊でもある訳だ。
 さて、ある著名な医師が、悪性の癌に罹った。 
 もう、あと僅かと言う時に、親しい友が、病床を訪れた。
 その、最後の会話の中に、欲という言葉が何度も出て来た。
 ベッドに寝たままの医師は、見舞いの友に話しかける。
「もうね、死が近づくにつれてさ、どんどん、自分の欲が消えて行くんだよ。美味しいものを食べたいとか、金が欲しいとかは、真っ先に消えた。今は、ラジオで教養講座を聴くだけが、唯一の欲だよ」
 医師だから、自己の終焉は、はっきりと分かっていたに違いない。  
 死に臨むと、人間は、全ての興味が喪失して行くものらしい。 
 逆に言えば、全ての興味が、喪失した時、死は成立するのかも知れない。
 俗に言えば、娑婆への興味、欲を失った時、人間は、死ぬのかも知れない。
 そう言えば、私の父は、
「おれはね、もう生きていても仕方が無いんだよ」と、言った。
 あの言葉は、今にして思えば、父が、娑婆に対する、全ての興味を失った、と言う宣言だったのだ。
 その言葉から、一ヶ月後、ある朝、父は亡くなった。
 具合が悪い所は、何も無かったが、死んでしまった。
 だから、当時、私は、自殺だと思ったものだ。今でも、そう思っている。
 ところで、芸術家は、割と長生きする人種らしい。勿論、全員という事は無い。
 それは、やはり、興味とか、欲を生涯にわたって持ち続けるからだろう。
 画家なんて良いなあ、実に羨ましい。
 若いピチピチギャルをモデルにして、その裸を見ながら、毎日、絵を描いて、時々、筆を休めて、そのモデルを口説く。
 話が、まとまれば、早速、その場で、懸命なる運動を始めて、心地良い汗を流す。
 こんな毎日ならば、誰だって、長生きしたいと思うだろう。その願望こそが長生きの原動力になるのだ。
 かの藤田嗣治も、そうやって、モンパルナスのキキを描いて居たんだ。
 と言う事で、人間は、何でもいいから、興味を失わず、欲を持って生きる事が、長生きの秘訣のようですね。 
 断捨離は結構な事ですが、物は捨てても、精神的な興味と欲は、捨てないようにした方が良いと思いますよ。
 物事に対する、興味と欲がある限り、この世は、あなたの人生は、何時までも楽しいと思います。
<上州無線さん、現在、一番の興味はなんですか?>
<それが、減りつつあるんで困ってる。だから、今までは無かった、新しい対象にも興味を持たないとね。新しいピチピチギャルなら、いくらでも興味、持てるんだがね。今は、英語の本を読む事位かな。あとは、ピチピチギャルからのコメントが来ないかなあ、と思ってるよ>
<あの、上州無線さんの長生きの秘策は何ですか?>
<だから、上の記事の通りだとおもうね。個人的には、毎朝、体操して血流を良くする。早寝遅起きかな。一般的には、生きる目標の無い老人に、生きる希望を持たせて上げる事が、何と言っても、一番大切だよ。そうすれば、自然と長生きする筈だよ。老後の人生でね、何もする事が無い、と言うのが、一番精神的に良くないんだ。それが鬱病の原因だと思うよ> 
<では、どうすれば、生きる希望が持てて、長生き出来るようになりますか?>
<うーん、余り公表したくないのだが、一つだけ、ものすごく効果的なのがあるよ。それはだな、60歳以上の男性に限り、痴漢犯罪を全て無罪にするのだ。そうすれば、毎日、好きなだけ、ピチピチギャルのお尻を触れる事になる。これは、生きる希望の無い老人にとって、とても大きな希望になる事、間違い無しだ。すると、毎日楽しいし、誰だって、長生きしたいと思うはずだよ。結果、長生きすることになる。これこそが、最も効果的な、最高の秘策だと思うね> 
<で、女性老人の方は、どうなりますか?>
<えっ、女性だって? 忘れてた、うーん、女性は、美味しいものさえあれば、長生きするんだから、秘策なんて不要だよ> 



俳句


長生きを してもする事 何も無い