上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

冬晴れの日曜日

 寒くなりました。いよいよ冬将軍の到来ですね。
 それで、寒くなると、新聞の訃報欄が大きくなります。時には、紙面の半分位になる日もあります。
 寒さは、やはり人間、特に、老人には大変な障壁なんですね。
 つい先日ですが、訃報欄を見てたら、見覚えのある名前が目に入って来ました。
 見ると、87歳。名前は群馬氏。
 まあ、この辺まで生きれば、群馬氏も悔いは無かったでしょう。
 特に親しい人では無かったです。噂では、なかなか大変な人のようでした。
 とにかく、周りには、猛烈に威張る人だったみたいです。  
 私の先輩は、怒られて、何と土下座して謝ったそうです。
 人を土下座させるのは、江戸時代なら、ともかく、今の時代、有り得ませんね。
 ある研修会に参加したら、そこに群馬さんが講師でいました。
 暫く話した後、いきなり、言いました。
「君たちは、二人の女性を同時に、愛することが出来るかね」
 全く、研修とは関係の無い話でしたが、当時、群馬さんは、そんな関係に、御自身が悩んで居られたと、後で知りました。
 私は、二人位、ごく簡単だと思いましたが、群馬さんにとっては、そうでは無かったようです。
 意外と、いわゆる真面目な人間だったのかも知れません。
 決して、悪人では無かったと思いますが、余りにも、威張り過ぎると言う事で、周りの評判は、イマイチだったように思います。
 勿論、取り巻きの連中からすれば、偉大な先生だったと思いますが。
 私は、一度も同じ職場で勤めたことは無かったので、群馬さんの仔細は知りません。
 群馬さんとの接点は、三回だったと思います。
 二度目は、何か小さな研修会でした。
 20人位がコの字形に座り、彼が、テーマについて参加者に順に質問しました。
 参加者が何か答えると、何と、コテンパンに、その内容をこき下ろしました。
 まあ、相手は王様ですから、参加者の誰一人として、反論する者は居なかったです。
 まさに、一座の者は、戦々恐々として、頭を垂れていました。
 質問の順が巡り、やがて、私の前の人になりました。
 これは、私も、好き放題に批判されるなと思い、当時、まだ、30代の初めでしたが、胸がドキドキしていたものです。
 ところが、次の質問は、私ではなく、反対側の列に飛んでしまったのです。  
 思わず、ホッとしました。 
 それで、研修会が終わるまで、私は、遂に指名されることはありませんでした。
 三度目は、何かの宴会の席でした。
 そしたら、運悪く、向かい合わせの位置に群馬さんが座りました。今更、席を移動する訳にも行かず、困ったなあと思いました。
 宴が始まり、暫くして、群馬さんが、ふと話しかけてきました。
「君は、実に素晴らしい体格をしているなあ」
「そうですか、私よりも、宮崎先生の方が身体は、ずっと大きいですよ」
「いや、そうだけれども、宮崎さんは、大きいけど、単にデブだからね。君は、均整が取れてるよ」
 隣には、宮崎という、100キロを超える人が居たのです。
 当時、私は、80キロ位でしたが、広い肩幅と、半袖の太い両腕が目に入ったので、それで、彼は、そんな感想を漏らしたようでした。
 長く話をする機会は無かったので、本当の群馬さんは、どんな人間だったのか、分かりません。
 悪い方の噂ばかりでしたが、専門分野では、なかなか、力のある人だったので、話してみれば、噂ほど悪い人では無かったように思います。
 さて、高校生の時、体育館で講演会が開かれた。
 その日、どんな講師が来たのか、もう忘れてしまった。
 ただ、余りにもつまらない話だったので、途中から、私や、幾人かの友達は、長椅子に寝そべってしまいました。
 三年生は二階席でした。
 そうして、暫くしたら、いきなり、ぴしゃりと鋭い音がしたのです。
 ビックリして見ると、体育科の教師が、二階席に上がってきて、長椅子に寝ている友達の頭を思い切り、平手で叩いていました。次々に、容赦なく叩きました。
 気付いて、慌てて起きた者の頭も、遠慮無く叩きました。
 ステージの講師から見れば、二階席は丸見えである。
 寝転がっている生徒を見て、話をしている講師は、いい気分はしないだろう。 
 失礼も甚だしかった。
 それで、その光景を見た、体育科の教師が、二階席に飛んで来たのでしょう。
 でも、余りにも話がつまらなかったので、つい・・・、それは言い訳にもならない。
 私も、当然、叩かれると思って覚悟していた。
 ところが、その教師は、私を叩くこと無く、立ち去ったのだ。
 その教師と私が、格別、親しかったと言う事は無い。
 個人的に話をした記憶も無かった。 
 1200人も居る高校だから、私の顔を知っている筈も無いです。
 私だけが叩かれなかった事で、逆に、心の痛みが永く残ったものでした。
 他の友達と同じように叩かれていた方が、余程、気が楽だったと思います。 
 話変わって、学生の時、ある教授が指名して、学生の解答を黒板の前で、厳しく指弾していました。
 順に指名していましたので、その内、私の所に来るなと思いました。
 ところが、私は指名されませんでした。
 まあ、この時は、学生が20人位しか居りませんし、私は、講義をさぼってばかり居たので、恐らく、その教授は、勘弁してくれたのかも知れません。
 こうして思い出すと、何度も危機?に遭遇しましたが、間一髪、その難を逃れている自分に気付きます。
 これは、どう言う事なのか。 
 古稀になって、考えると、やはり、それは人間の波長かも知れないです。
 相性と言いますが、それは男同士にもあると思います。
 そうすると、波長の合う人間に対しては、どうしても、無意識に遠慮してしまうのでしょう。
 やはり、自分と波長が合うなと思う人間は、大事にしたいですから。 
 と言う事からすれば、もしかすると、威張りすぎの群馬氏でしたが、話してみれば、私と馬が合ったのかも知れません。
 まあ、人間、噂だけでは判断出来ません。
 他の人間には、悪い人でも、自分には、良い人かも知れないですから。
 昔から、馬は乗ってみよ、男は沿ってみよ、女は抱いて見よ、と言いますからね。
 さて、どんな人生を送っても、最後は、訃報欄で終わりになります。
 死は、完全なる平等をもたらす、とは、よく言ったものです。
 どんなに金を貯めても、最後は、一文無しになります。
 どんなにすごい美人に逢ったとしても、天国まで持っていく訳には行きません。
 私も残り少ない人生なので、これからは、心穏やかに、静かに暮らしていこうと思います。
 さて、今日は、抜けるような冬晴れの日曜日です。
 こんな日は、若い女の子が沢山、モールに行ってる筈なので、私も、急いで、お昼を食べて、何はさておき、一目散に、モールに行くつもりです。
 そうして、相性の良い、若い子を、是非、見つけて話しかけたいと思います。
 今日はどんな収穫があるか、楽しみです。
 


俳句


訃報欄 人は誰でも 消えて行く



制限時間

 今朝も、いつもと同じように、自分の朝飯を作りました。
 朝飯は、夫婦それぞれ、適当に作って食べる事になっています。
 メニューは、御飯、納豆、ニンニクのすりおろし、タマネギとジャガイモの味噌汁、漬物、海苔。
 生ニンニクを食べると、かなり臭いますので、外出の予定が入ってる時は、生ニンニクは食べません。 
 朝飯を食べ終わり、いつもの様に、緑茶を飲んでいたら、老妻が書斎にやって来ました。
「10時に友達が来るよ」
 来ると、いつも同席して、世間話をしなくてはなりません。
 話は、どれも、どうでも良いものばかりなので、大変困ります。
 かと言って、黙ってばかり居ると、変に思われますので、適当に、此方からも話題を出さなければなりません。
 まあ、老妻の友達が美人であれば、私とすると、嬉しいのですが、未だ嘗て、美人であった試しはありません。
 老妻の知り合いは、沢山居るので、その中には、美人も少し居る筈と思うのですが、どうも、美人は招かない見たいです。
 やはり、美人の友達を招くと、素敵な夫を略奪されてしまうと心配しているのでしょう。
 ブログは、大抵、1時間半もあれば、書けるのですが、どうも、来客の予定があると、急かされているようになります。
 そうすると、気持ちが落ち着かず、文案も浮かばず、パソコンのキーも叩けません。
 やはり、文章と言うのは、ゆっくりした雰囲気で書かないと駄目なようです。
 すなわち、文章を書く、自分のペースというのがあるんですね。 
 マラソンでもそうですが、書くペースが狂うと、途中で息切れして、文章は、ストップしてしまいます。
 時間に急かされて作った文章は、誤字や脱字も多くあって、基本的に駄目です。
 即ち、何をするにも、対象に専念出来る環境は不可欠なのです。
 さて、学生時代、それほど、好きでもなかった子ですが、付き合っていた女の子がいました。
 今風に言えば、セフレと言うことでしょうか。
 ある日の午後、その子の下宿に行きました。
 その子、顔は普通でしたが、スタイルは、まあまあ、行けました。
 一番の特徴は、偉大な、後ろに大きく盛り上がった、出っ尻でした。
 アフリカにホッテントットという種族がおりますが、あの女性の遺伝子を持っていたのかもしれません。
 実は、ケツのデカイ女性は好きでしたので、とは言え、形等の条件はありますが、それで、それほどの好みでは無くても、付き合っていた訳です。  
 と言う事で、気持ちは余り通じていないので、逢って、顔を見たり、話をしても仕方ないので、後は、専ら、汗かき運動という事になります。
 まあ、若き青年時代とは、誰しも、そんなものです。
 で、いざとなった訳ですが、そこに、丁度、電話がかかってきました。
 立ち上がった女の尻を見ながら、電話から漏れる、途切れ途切れの微かな音声に耳を傾けました。女性の声でした。
 すると、どうも、誰かが、用事で、この下宿に来るらしいと分かりました。
「一寸、すぐに母が来るのよ。早くしてね」
 言うが早いか、女は、素早く、デーンと布団に仰向けになり、すぐに脚を開きました。
 その姿は、まるで、屠殺された豚のように見えたものです。
 30分後には来ると言うことでした。 
 でも、30分もあれば、当時は、全盛期の若者ですから、その気になれば、3分で出来る筈です。
 実は、基本的に男は、早漏に出来ております。
 その気になれば、5分でも、十分すぎる位なのです。
 これは、何万年もの、雄としての記憶が、遺伝子の中に刷り込まれているからです。
 今と違って、森や平原で、セックスをする訳ですから、近くの藪の中からライオンが襲って来るかも知れません。
 即ち、現代人のように、セックスを楽しむと言うことは、到底、出来なかったのです。
 原始の時代、セックスは、俗に言う、牛の一突きだったです。
 のんびりやって居たら、二人とも、虎などに食われてしまうのです。
 その記憶が、雄の脳に書かれているので、セックスは、その気にさえなれば、短時間で終了出来るのです。
 ですが、それだと、女の方は、全く満足出来ませんので、そんな男は、女から嫌われることになります。
 ですから、男は、終わってしまうのを、必死に我慢しながら、なるべく、セックスの時間を長引かせて、女が到達するのを待ってやる訳です。
 男の人生は、何もかも、本当に大変なんですね。
 さて、時間が迫っているのは、分かっていましたが、男と言うのは、一旦、興奮してしまうと、もう止まらなくなります。
 本当は、人が来るのであれば、もう止めた、と言って、直ちに退出するのが良いのですが、そうは、男の脳は、なりません。
 どうしても、最後まで決着を付けないと、もう我慢出来ないのです。
 さて、すぐに終わると思い、猛烈に頑張りましたが、どうしたことか、いつまで経っても、その気配が見えてきません。
 必死の努力でしたが、何の兆候も見えません。
「早くして、早くしてよ、どうしたのよ」
 下からは、焦った女が、もう盛んに急き立てています。
 女に煽られると、余計に、駄目になりました。
 男とは、どうも、その様に出来てるみたいです。
 すごい、すごいと、褒められた方が、男は元気が出るのです。
 「この女め! 黙っていろ、馬鹿女」と、叫びたくなりました。
 でも、全身の力を出して、頑張りましたが、まだでした。
 すると、もう間に合わないと思ったのか、女は、何と、私を乱暴に押しのけました。
「もう間に合わないよ。この次にしようね」
 女は、「この次」で良いかもしれませんが、男は駄目なのです。
 でも、仕方ありません。すぐに服を着ました。
 私自身、もう人が来るのでは無いかの予感がしました。
 一刻も早く、この部屋を出た方が安全です。
 アパートの階段を猛烈な速さで、駆け下りました。
 道に降り立った時、やっと、安心しました。 
 その女とは、その日で、それっきりになりました。 
 男の気持ちを全く無視されたので、もう面白く無かったのです。
 でも、今思うと、若い男というのは、実に、勝手なものですね。 
 女の人生も、こう言う男を相手にするのですから、それは大変な事と思います。
 とは言え、男と女、どっちもどっち、やはり良い勝負なのかも知れません。



  


俳句


早くして その一言で 駄目になり


曲輪町

 このブログを始めた頃は、アマチュア無線のカテゴリーに居たから、無線関係の記事をよく書いていた。
 あれこれと電子工学の話を書くのは、とても楽しいからだ。
 偶には、数学のことを書いた。
 でも、ナイス読者はゼロだった。
 まあ、ナイスを付けなくても、読んだ人が居たとは思うが、ごく僅か、それも流し読み程度だったろう。
 やはり、それだと少しつまらなかった。
 やはり、ブログは、書いてる自分も楽しく、読んでる人も楽しい方が良いと思うようになった。
 となると、誰でも分かる話は、日常のこと、男と女の話である。
 誰でも、男か女かの何れかだから、男女の話は、誰にとっても興味のある話だ。
 そこで、古今東西の小説は、男女に纏わるもの、恋愛が主なテーマとなる訳だ。
 でも、最近は、また電波の話を、どうしても、一寸、書きたくなった。
 科学的性欲が溜まってしまったのかも知れない。
 ならば、性欲を我慢するのは健康に良くないことである。
 さて、数式を出せば、読む人は、ゼロだから、分かり易いお話にすればよいかと。
 電波の一番の要点は、「空間にも電流が流れます」という事です。
 銅や鉄等の金属一般に、電流が流れることは、常識です。
 でも、空間には電流は流れません。
 ですから、電線の中だけ、電流が流れているのです。
 自宅の、すぐ近くに、12万ボルト位の高圧線が走っていますが、この高圧に感電しないのは、電気が空間を伝わらないからです。
 即ち、空間に電流現象は、生じないのです。
 ところがですね、本当は、空間にも電流は流れるのです。
 例えば、雷。
 空中に稲光が見えますが、あれが電流の通り道です。雷雲から出て、何処か不運な人の所に落ちる訳です。
 電子が雷雲から出て、地上に到達するのです。
 電子の流れが電流ですから、空間に電流が生じたことになります。
 でも、これだと、何か、雷という、ごく特殊な場合だけの感じがします。
 空間に電流が流れると主張するのなら、いつも、当たり前に電流が流れていないと、何となく、納得出来ませんね。
 そこで、別の例を紹介します。
 二枚の金属板、例えば、正方形を3ミリ位の距離で向かい合わせて置きます。
 この二枚の金属板に、乾電池を繋ぐのです。
 どうなりますか?
 すると、一瞬ですが、本当に、電気が流れるのです。
 電線で繋がっていないのに、電気が流れるのです。これは、本当です。
 立派に、当たり前に、空間に電気は、極めて短時間ですが、流れているのです。
 ただ、当時は、この現象を電荷がコンデンサーに充電される現象としか、考えていなかったのです。
 マスクウェルは、この同じ現象を変位電流という、空間を流れる電流と言う観点から、この現象を見直したのです。
 すると、空間に電流が流れれば、磁気が発生し、その磁気は、再び電流を発生することになり、この繰り返しが電波になると予言したのです。
 同じ現象に対する、新たな見方が新たな発見を生んだのです。
 新たな見方が出来る人、それが天才なのかも知れませんね。
 この変位電流の考え方を元に、ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831-1879)が、電波の存在を予言したのです(1864)。
 これは南北戦争の三年後ですね。
 あの時代に、もう電波の存在を予言していたのです。
 数式から理論的に、見えない電波がありますよ、と言うのですから、すごいことです。
 1888年に、ヘルツが、この電波の存在を実験によって証明しました。
 24年後に、マクスウェルの予言が証明された訳です。
 マクスウェルの光も電磁波の一種であると言う予言から、それを土台にして、アインシュタインの特殊相対性原理も導かれました。
 アインシュタインというと、天才の代名詞みたいな人ですが、彼も、また、前の時代の天才の業績から出発しているのです。
 ですから、ずば抜けた天才というのは、実は居なくて、各時代の天才は、前の時代の天才から、一歩ずつ進歩していると言う事が分かります。
 電波が発見されてなかったら、21世紀の今は、無いと思います。
 電波の発見は、後に、真空管や電子機器の発展をもたらしました。
 このブログだって、電波の発見が無ければ、こんな風に出来なかった筈です。
 それにしても、21世紀の今だって、空間に電流が流れることに気付いていない、或いは、知らない人が沢山居ると思います。
 如何に、マクスウェルという天才が、時代を超えていたか、よく分かりますね。
 うーん、久し振りに電気のお話を書いたので、私の鬱憤は、少しだけ晴れましたが、物理的に肝心な部分が抜けていますので、全くの概略となりました。
 でも、やはり、科学理論の概略と言うのは、あまり意味ないですね。 
 数学と同じように、全部、しっかりと理解出来ないと、意味はないのです。
 なので、今後は、もう、無線や電気の事を書くことは無いと思います。
 閉話休題。
 我が前橋は、徳川の直轄地、城下町でした。
 ですから、町名に曲輪町(くるわちょう)などがあります。これは、廓町のことですね。 
 その昔、侍や豪商が通った場所だったのでしょう。
 さて、ずっと以前、ある生徒の家庭に行った時のこと。
 両親は居らず、祖母が居ました。
 聞けば、結婚式に行くと言って、この生徒の両親は東京に行き、二人とも、そのまま、式後、駆け落ちして、家庭放棄したとのこと。
 それぞれの愛人と駆け落ちだそうです。どうにも信じられない話でした。
 まさに小説以上の話です。
 親無しの、この生徒が、いつも陰気な表情をしているのは、当然でした。
 で、祖母と話していたら、下の娘が芸者をしていると言うのです。
「ちっとも恥ずかしいことじゃないけど、実はさ、この子の叔母が芸者してるんだよ。それで、この子の面倒も見てもらってるの」
 その時、初めて、前橋にも、芸者が残っているんだなと知りました。
 もう今は、色んな風俗、デリヘルとか、ありますから、既に無くなったと思ってましたが、残っていたんですね。
 すると、前橋の町にも、何処かに、廓の風情が残っているに違いない。
 であれば、何時の日か、芸者に逢ってみたいなと思いました。
 ところで、あの谷崎潤一郎は、何と、我が前橋の芸者に惚れたのです。
 しかし、その人は他の人に取られてしまい、仕方なく、その妹の石川千代子でしたか、を愛人にしたのです。
 きっと、姉妹で風貌が似ていたのでしょう。にしても、執拗だな、谷崎さんは。
 ですから、前橋の芸者にも、かなりの美人が居たようです。因みに、谷崎は、その後、更に、千代子の妹である、せい子も14歳で愛人にしました。
 ほんとに好き勝手に生きた、谷崎潤一郎さんでしたね。羨ましいね。


俳句


老妻は 何処かに行って 一人飯


芸者小鈴

 鈴懸の径と言う歌謡曲を覚えたのは、大学に入ってからだと思う。
 気がついたら覚えていて、何かの折りに、よく歌っていた。
 メロディーも歌詞も、なかなかのものである。
 ビクターレコードから発売されたのが、1942年と言うから、戦前の歌である。
 勿論、その時、私は、母のお腹にも存在していなかった。
 立教大学構内にある鈴懸並木が、この歌のイメージで、歌の記念碑もあるらしい。
 最初、この歌を覚えた時、小鈴と言うのは、芸者の名前だとばかり思っていた。
 要するに、まだ若い芸者と、学生が肩を寄せ合い、鈴掛の並木径を歩いている、と言う場面だと思った。
 そしたら、ある時、単なる鈴と分かり、途端に、ひどく落胆したものだ。
 でも、どうしても、この歌は、友とだけでなく、美しき恋人と鈴懸の並木道を歩いた歌だと思いたい。
 また、そうだと思う。
 それは、二番を見れば、納得がいく。
 澄んだ瞳は、紛れもなく、好きな女の瞳である。
 まさか、男の友人の瞳に、男が、こんな想いは抱くまい。
 だから、この歌は、歌詞を多少変えて、本来は、二番をメインとするべきものであると言うのが、私の要望である。 
 さて、歌詞は、以下の通り。三番まであるが省略。
 例によって、著作権者には、内緒である。   
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鈴懸の径 (1942年発売)


作詞 佐伯孝夫
作曲 灰田晴彦
友と語らん 鈴懸の径
通いなれたる 学校(まなびや)の街
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば
夢はかえるよ 鈴懸の径


熱き想いを 心にこめて
澄んだひとみは 青空映す
窓辺の花に ほほを寄せれば
夢はかえるよ 鈴懸の径
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 それにしても、二次大戦勃発直前の時期に、よくもまあ、発売されたものだ。
 普通なら、軟弱歌謡曲として、発禁になっていた筈である。
 鈴懸の木は、プラタナスと言う事だが、これは、先日、亡くなった端田宣彦の風にも登場する。
 言葉が、詩的な響きを持ってるせいか、歌謡曲には、よく登場するのだろう。 
 以下は小説です。念のため。 
 ある時、彼女のアパートで、鈴懸の径を歌った。
 そしたら、歌っている、仰向けの私の胸に、そっと、彼女が顔を埋めて来た。
 歌い終わったら、彼女が、すぐに言った。
「ねえ、もう一度、歌ってよ」
 歌が上手だと思ったことはないが、どこか、私の歌声を気に入ったらしい。
 ならば、ご要望に応えてとばかり、一段と、声を張り上げて歌った。
「すごい、すごい」
 そんなにまで感動しなくてもと思ったが、もしかすると、私の低い声が好きなのかも知れない。
「あんまり褒めてなくも良いよ。この歌、好きなんだ?」
「ううん、貴方の胸が楽器みたいに振動していたの」
「何だ、そんなことか」
 すごいのは、歌では無かった。 
 それならば、もっと低音の歌をと思い、ステンカ・ラージンを歌った。
 低音が連続する歌だから、私自身にも、胸が強く振動するのが分かった。
 彼女は、胸の振動をすべて捕まえようと、力一杯、私の胸を抱き締めていた。
 歌い終わると、彼女は身体を半分起こして、小さく呟いた。
「ねえ、あたしが、好きな彼氏を振って、貴方の所に来たこと、忘れないでね」
 それだけの犠牲を払って来たのだから、十分、対価を払って欲しいと言うことだ。
 実に、気の毒な彼氏だった。
 彼女が私と出逢ったことで、いとも簡単に振られてしまったのだ。
 本当は、その彼と結婚してた方が、一番幸せだったと思う。
 でも、逢った日から、どんどん私を好きになって、近づいて来たのである。
 ある日、「明日、あたし、言うからね」と言った。
 何を言うかと思っていたら、喫茶店で、独り言のように言った。
「貴方と付き合うと決めたの、もう決めたの」
「うーん、そう・・・ですか」
「もう決めたの、一度決めたものは、あたし、変えないの」
 何んでも、一人で、どんどん決めていく女だった。
 うら若き女の情熱は、どうにも止めようが無かった。  
 数年後、彼女は、私の言葉を黙って聞いていた。
 しかし、聞き終わると、やがて、すすり泣きを始めた。
 それから、ものすごい大声で泣き出した。
 さすが、音大の声楽科出身だった。
 日々の鍛錬は嘘ではなかった。彼女の泣き声は、広い駐車場の隅々まで、救急車のサイレンのように響き渡った。
 三ヶ月後、新しい男が見つかったと連絡して来た。
「でも、結婚してからも、ずっと、貴方と付き合うからね」
 電話の声は、もうサバサバとした声であった。
 どうも、女は、三日も経てば、別れの悲しさを、すっかり、忘れることが出来るらしい。
 とにかく、情熱的で、一度決めたら、もう振り向かず、そのまま人生行路を一直線に疾走して行く女だった。
 彼女の濃い眉毛と鋭い目を見ると、いつも、真っ赤なドレスを着て、フラメンコを一心に踊りまくる、あの闘牛士のカルメンを思いだしたものです。
 若い女の情熱は、若い男にも決して負けないものと、初めて知りました。
 でも、結婚してからは、二度と逢わなかった。   
 活力旺盛な女だったから、結婚して、地味な家庭生活に満足したとは思えない。
 恐らく、何処か、遠い空の下で、見知らぬ男と歩いているのでは無いかと思う。
 でも、それで幸せならば、それでいい。
 よく分からないが、それが、人生と言うものなんだろう。
 小説終わり。 
 久し振りに鈴懸の径を歌ってみた。
 何時か、何処かで、黒留め袖の素敵な芸者、小鈴に、ぜひ逢いたいものです。
 もしも、小鈴に逢えたら、秋晴れの穏やかな日、彼女と肩を並べて、鈴懸の葉が散る径を歩いてみたいです。
 だから、私の、ブログアイコンは、黒留め袖の女なのです。




俳句


並木径 スカート揺らし 走り来る





足の指

 老妻は、学生時代、優秀な陸上選手だったが、どうも家事関係の方は、得意では無い。
 と言うか、殆ど興味が無いようだ。
 だから、料理の方も、上手に、いや、普通にすらも出来るものは一つも無い。
 付き合い始めた最初の頃、それは山の学校に居た時だが、老妻が、当時は、まだ若かったが、寮の部屋で、うどんの煮込みを作ってくれた。   
 「どうぞ」と言って、テーブルの上に出された、うどんを見て、私は、えっと、声を上げてしまった。
 出された、うどんが、濃い醤油色に染まっていたからである。
 うどんは、白いものと思っていたが、何だろう、これは、もう違うものに見えた。
 でも、もしかしたら、何か他の食材で、こんな色になってるのかも知れないと思い、ものは試しと食べてみた。
 いや、その塩っぱい事、とても食べられたものでは無かった。
 とは言え、老妻と付き合い始めだったから、ここは、上手にやらないと、女は逃げてしまう。
 こんな場合、彼女が、折角、作ってくれた、うどんを食べ残すことは、最低の対応である。
 喜んで、お代わりするとか、少なくとも、全部は食べなくてはならない。
 女の機嫌を取るには、いつも誠心誠意、真剣に対応しなくてはならないのだ。
 なので、老妻が寮の廊下に出た隙に、猫のように俊敏に立ち上がり、寮の窓から、素早く、遙か下の谷川に向かって、うどんを放り投げた。
 思い切り手を振ったから、丼まで飛んで行きそうになったので、慌てて強く握りしめた。
 丼まで谷底に放り投げていたら、大変なことだった。
 「丼まで食べました」では済まないだろう。 
 それで、改めて、手元の丼を見たら、うどんの汁は、全く残っていなかった。
 それを見ながら、汁が、少しは残っていた方が、良かったかなと思ったが、どうすることも出来なかった。
 その後、老妻に「美味しかったよ」と言った。
 さすがに、「とても」とか、「ものすごく」とは、付け加える気には成れなかった。
 勿論、お代わりするのは止めた。
 二回も、うどんを谷川に捨てるチャンスは、もう有り得ないと思ったからだ。
 作る料理の味が、すごく塩っぱいのは、老妻の実家は山間僻地だから、畑や森での肉体労働で、汗を掻き、どうしても塩分を必要とするからである。
 それで、その集落では、伝統的に、料理の味が塩っぱいのだろう。
 結婚して何十年になるか、知らないが、正真正銘、料理は、間違いなく下手である。
 だから、肉じゃがを作ると、ジャガイモが、これまた濃い醤油色に染まる。
 私が何度言っても、駄目だった。最後は、もう肉じゃがは作らなくなった。 
 だから、結婚する女に、不可欠な条件が幾つかあるけど、まずは、料理が上手なことだね。
 料理が下手だと、毎日が我慢の日々となるからね。
<あの、他の不可欠な条件は何ですか?>  
<まあ、あるけども、このブログでは公開出来ませんね。強いて言えば、口元がしっかりしてること、足の指が綺麗なことだね>
<足の指が、ですか?>
<そう、それが肝心要なんだよ。初心者には分からないだろうがね>
 さて、子育ての時代と現役時代は、猛烈に忙しかったから、不味い料理でも、気にしてる暇は無かった。
 退職してからは、暇な時間が出来たので、私が、御飯を焚いたり、煮付けの味付けをするようになった。 
 老妻も、退職後は、時間が出来たので、多少は、料理に関心を持ったらしい。
 それで、料理も、近年、少し改善されて来たのは、大変喜ばしいことだった。
 もう幾許も無い人生だが、死ぬまで、不味い料理でなくて良かったです。
 さて、先日のこと、老妻がスープの作り方を何処からか、聞いて来た。
 それで、北海鍋を作ると言う。
 レシピは、味噌、酒粕、コンソメ、醤油、味醂、バター。
 これで作れば、とても美味しいスープが出来るようだ。
 でも、正確な量とか、無い。
 まあ、美味しそうに思えたので、後は、私の味覚に任せて作る事にした。
 初めてのことなので、私も慎重に味噌や醤油、酒粕を加えながら作った。
 段々、すごく美味しいのが出来てきた。
 完成品は、市内の店で食べた、塩バタラーメンのスープに似ていた。
 これは、素晴らしいものが出来たと、私も喜んだ。
 出来上がった北海鍋は、予想を超えて美味しかった。
 それで、初めて作った鍋を食べていると、老妻が、いつもの様に、
「これは、美味しいよね」と、聞いて来た。
 この問いかけには、常に、肯定形で答えることが、家庭内平和の礎である。
 即ち、「そうだね、美味しいね」と。
 でも、まあ、今回、このスープを作ったのは、私自身だから、いつもとは違って、否定形で答えることも出来た筈である。
 しかし、初めてのスープで美味しかったから、「うん、本当に美味しいね」と答えた。
 実は、これが、不幸の始まりだった。
 その後、毎日、毎日、味噌汁、鍋、野菜スープ、その他も、すべて、このスープで作ったのである。
 しかも、実際の味付けを調整するのは、私だから、昼食、夕食、その度に呼ばれるのだ。
 もう半月位になる。
 何言っても聞かない人なので、後は、もう老妻自身が、このスープに飽きるのを待つしかありません。
 例え、いくら美人でも、毎日、抱けば、飽きて来ますよね。 
 もう本当に、あのスープは、勘弁してもらいたいです。
 そうそう、後日、万一のために補足しておきますね。
 老妻ですが、料理、掃除、整理等は、極めて不得意ですが、得意なものも、他に沢山あります。
 まず、編み物が得意です。これで鍋敷きとか、鍋掴みを器用に作ります。
 同じものを迅速に、何十枚でも飽きずに作れます。
 後は、庭木の剪定は庭師並に上手です。
 それと、手書きの字がとても正確で綺麗です。
 草花を育てるのが、とても上手です。
 後は・・・、朝早く起きて、新聞を取りに行けます。
 まあ、それ位ですかね。
 念のため、付け加えておきます。
<あの、女性の足の指が、何で重要なんですか?>
<うん、私も初めて、青井から、それを聞いた時は、理解出来なかった。でも、何事も実践なんだよ。その実益は、まさに覿面なものがあったね> 
<あの、もっと具体的に話してもらえませんか?>
<匿名のブログだからね、それは、到底、無理と言うものです> 
<あの、何かヒントになるようものでも良いですから、是非>
<色事師青井の教えてくれた事だから、要するに、女が夢中になること、です>
  


追記
 さて、このブログを書き終えた時、老妻が書斎に入ってきた。
 スーパーに、格安でタマネギのネットがあったと言う。
 見ると、ネットに中位のタマネギが、何と20個位も入っている。
 しかも、190円。
「こりゃ、安すぎだな」と私。
「ねえ、そうでしょ、あたしも驚いたよ」
 それで出て行ったが、すぐに戻って来て言った。
「あのね、昼は、鍋だから、味付け、お願いしますね」
    



俳句


何事も 限度があるよ 美味いもの