上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

七里ヶ浜の波

 江ノ島は、小学校六年の修学旅行で初めて行った。
 当時、前橋市の小学校は、全て江ノ島鎌倉一泊が、修学旅行の定番であった。
 どうやって行ったのか、今となっては、はっきりしないが、あの時代、群馬から江ノ島まで電車で行くのは、大変な事だったろうから、恐らくバスで行ったのだと思う。
 行く前に、♪♪七里ヶ浜の磯伝いの「鎌倉」とか、♪♪真白き富士の嶺の「七里ヶ浜の哀歌」等を練習した。
 でも、修学旅行に行けば、そんな歌は関係なくて、思いっきり、はしゃぎ廻っていました。
 とは言え、上の二つの歌は、とても良い歌で、今も尚、心に残っています。
 哀歌にある、七里ガ浜の海難事故ですが、資料に依れば、明治43年1月、七里ガ浜沖で、乗っていたボートが沈み、逗子開成中学の生徒12名が死亡とあります。
 歌詞の一節に、「力も尽きぬ 呼ぶ名は父母」には、胸が一杯になります。
 もっとも、この歌を小学校で練習した時は、特に、感動は覚えませんでした。
 後年、色々な情報を得るに従い、この歌の哀しさを実感するようになりました。
 鎌倉の歌も、静かな雰囲気で、歴史を感じさせてくれます。
 ところで、我が群馬は海が無いので、修学旅行で初めて見た海に、私は、心から感動しました。
 あんなに沢山の水を見たのは、12年間の人生で、初めての事でしたから。
 赤城の大沼とは、広さが大違いでした。 
 さて、鎌倉の方は、色んな処を巡りましたが、大仏の処で、お決まりの記念写真を撮りました。
 あとは、定番のコースを歩いたのだと思いますが、もう、よく思い出せません。  
 覚えているのは、護良親王が閉じ込められた、土牢と言うのが、悲惨で、怖かったです。
 あと、鶴岡八幡宮も、微かに覚えています。石畳の情景とか、何か、ガイドさんが説明していました。
 多分、例の公暁の話だったと思いますが、よく覚えてません。
 眠いのと、初めから、説明を聞く気も無かったのでしょう。
 嬉しくて、夜は、殆ど眠れなかったですからね。
 二回目に、江ノ島に行ったのは、今は老妻ですが、昔は、それなりの美人(自称)だった人とでした。
 まだ、結婚していない時だったから、不倫では無いけど、婚前旅行ですね。
 何かの折りに、不意に江ノ島に行きたくなって、二人で行ったのだと思います。
 七里ヶ浜も散歩しましたが、何処かに行った記憶は無いですね。
 まだ若かったですから、きっと、旅館で、頑張っていたんだと思います。 
 夜、旅館の風呂に行ったら、どっかの、若い夫婦が入って居て、男風呂と女風呂の仕切り壁に向かって、お互い、大声で怒鳴って、楽しそうに会話してたのが、印象的でした。
「ねえ、明日、どうすんの、何処へ行くのよお」
「何処でも良いからさ、お前が考えろや」
 風呂は、その夫婦と、私達だけでした。
 あの夫婦も、雰囲気的に、もしかしたら、婚前旅行だったかも知れません。
 三回目の江ノ島は、長女が中一位の時、私と二人で行きました。
 長女が、何故か、七里ヶ浜を歩きたいと言ったのです。
 それで、その時は、もう、新幹線で行ったと思います。
 晴れた、あの日、浜辺を歩いていた、可愛かった長女の姿を、今でも、はっきりと思い浮かべる事が出来ます。   
 長女は、砂浜を走り、貝殻を拾い、とても楽しそうでした。
 あの日が、ずっと、何時までも続いて居たら、私の人生も、少しは幸せだったかも知れません。
 でも、幸せは長くは続かないものの様です。
 でも、幸せは、沢山は無くても、ほんの少しの幸せがあれば、私は十分生きて行けるので、何とか、生きています。
 大丈夫、最後の日まで、生きる気力は、ありますから。
 さて、戦後の貧しい時期が、私の子ども時代でしたから、家族旅行なんて一度も無かったです。  
 ですから、修学旅行で江ノ島に行くまで、私は、海を見た事が無かったのです。
 なので、私は、子どもを沢山、旅行に連れて行きました。
 でも、余りに小さかったので、連れて行った場所を、殆ど、覚えていないようです。
 子供達と過ごした日々を思い出すと、いつも、胸に微かな疼きを覚えます。
 三月末、桜の咲く頃になったら、江ノ島、七里ヶ浜を、また、歩いてみたいです。
 でも、七里ヶ浜って、美しい女性が歩いているのか、その辺、一寸、心配になります。
 まあ、それを楽しみに、久し振りに懐かしい浜辺を訪れてみたいです。


俳句


寄せる波 浜辺の我が子 何時の日ぞ