上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

時代の子

 先日、清盛について書いた時、源頼朝の事も少し触れた。
 その頼朝の奥さん、北条政子は、ずっと、以前も何度か、文献を当たったが、どうも、よく分からない。
 熱烈な恋愛の末、頼朝と結ばれた、と言うのが、通説だが、どうも、それは疑わしいように思う。
 頼朝にしても、男だから、政子以外にも、既に愛人が何人も居たから、それほどの愛情は無かったと思う。
 ただ、頼朝にすれば、北条氏を味方にして、平家に対して、自らの有力な援軍としたい、と考えていた事は間違いないから、その辺で、政子と一緒になったのだと思う。
 政子の恋愛にしても、北条氏が、戦略的に仕組んだ、恋愛芝居かも知れない。
 政子の父、北条時政は、源氏の貴種であった、頼朝を利用し、武家政権の棟梁となる事を画策し、政子を上手く利用したのでは、と、邪推したくなる。
 いずれにしても、吾妻鏡とか、愚管抄等の歴史書は、恐らく、当時の権力者を誹謗する事は書けないから、その中の逸話は、いくら歴史書でも、信用度は、低い事だろう。
 さて、政子が妊娠すると、世の男には、よくある事だが、頼朝は、亀の前と言う妾を寵愛し、近くの伏見広綱の邸に住まわせ、そこに通った。
 これを知った、政子は、怒って、御家人牧宗親に命じて、その家を取り壊させます。
 当然ですが、住んで居た、愛人の亀の前、驚いて、裸のまま逃げ出したか、どうかは、はっきり書き残してないですが、全力疾走で逃げたのは確かです。
 うーん、頼朝の意向に従っただけなのに、亀の前、気の毒ですね。  
 そしたら、頼朝は、妾の家を取り壊した牧宗親に激怒し、丁髷を切って罵倒。
 でも、丁髷を切る位、一寸、冗談みたいで、大して事は無いですね。 
 これに対して、政子は怒り狂い、屋敷を提供した伏見広綱を流罪とします。
 実は、流罪と死罪は、殆ど同じですから、これは、冗談で無く、間違いなく重罪の処分です。
 頼朝は冗談気味、政子は決死の覚悟、この差は、一体、何なんでしょうか。
 この話は、政子の嫉妬深さを語るものとして、有名ですが、ここまで来てて、夫婦仲は、果たして正常だったのか、極めて、懐疑的になります。
 京都で生まれ育ち、源氏の棟梁であった頼朝ですから、沢山の女が、呼ばなくても、集まって来たと思います。
 夫の妾に、一々、嫉妬してたら、キリがありませんね。
 それに、政子の父、北条時政だって、沢山の妻妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませています。
 ですから、あの時代の、武家の、一夫多妻多妾、そう言った習慣を、政子が知らない筈がありません。
 他にも、頼朝は寿永元年(1182年)7月に、新田義重の娘・祥寿姫を妻に迎えようとしますが、政子の怒りを恐れた、父の義重が娘を他に嫁がせたため実現していません。
 当時は、多妻制ですから、頼朝の行動は、少しも奇異では無いのですが、やはり、政子は、認めません。
 その政子の意向に、頼朝は、大抵の場合、折れています。
 その理由は、恐妻家だったから、政子を愛していたから、それは嘘でしょう。
 鎌倉時代ですから、夫に異議を唱える妻は、殆ど居なかった筈です。
 言う事を聞かない妻は、すぐにも、夫に離縁されて、追放されてしまった事でしょう。
 死ぬまで、頼朝は、政子に対して、断固たる処置を取る事は出来ませんでした。
 これは、やはり、北条氏の隠然たる、勢力を考慮した結果だったと思います。
 まあ、頼朝と政子は、政略結婚みたいなもので、余り愛情とかは、関係なかったと思います。
 一夫多妻多妾の時代ですから、夫婦の愛情とは言っても、現代のそれとは、大いに異なる部分が、また、想像しにくい部分が、夫婦間に存在していたものと思われます。
 さて、政子には四人の子供が居ましたが、いずれも、暗殺、病死で、とにかく、不幸の一語に尽きます。
 特に、長男の頼家がバカ殿様だった事は、政子にとって不幸な事でした。
 青二才の頼家による独裁に御家人たちの反発が起きて、それは、13人の老臣による合議制に移行した辺りから、鎌倉政権が揺らぎ出します。
 また、頼家が、部下の妾を奪う事件と言う、呆れた事件も発生し、これまた、御家人達の離反を加速させます。
 いくらでも、自由に出来る女は居たと思うのですが、頼家は、史上最高の豚児だったようです。
 ところで、頼家の乳母は、比企能員の妻でしたから、頼家は、比企氏と懇意でした。
 これは、北条氏にとっては、ライバル台頭という事で、許させない事だったのです。
 この辺から、政子は、もう鬼と化したようです。
 父の時政と組んで、比企氏の滅亡させます。
 それは、結果的に、我が子である頼家、孫の一幡を殺す事になりました。
 いくら、戦国の時代とは言え、子と孫を殺すのは、普通の神経では出来ない事と思います。
 それを実行させたのは、やはり、食うか食われるかの戦国時代でしょうか。
 政子と言う、女性の、魔性を感じます。
 結局、あの混乱の時代を、ともかく、政子は、必死に生きたのですね。
 次男の実朝が暗殺される時も、恐らく、政子の位置に居れば、事件の勃発を予め、知っていたと思います。
 ですが、実朝を見殺しにします。
 あの頃、政子は、もう北条氏へ軸足を移していたのでしょう。
 頼朝、実朝は暗殺。二人の女の子、大姫は20歳、三幡は14歳で、それぞれ病死。
 まあ、頼家は比企氏側に、また、実朝は朝廷側に近づいて、母の政子と離反した事が、二人の死の原因ですが、相手が息子でも、構わず、処断したのは、やはり、普通人の神経では、理解しかねます。 
 同じように、やはり、権力争いから、実朝の執権となった、父の時政を出家させ、伊豆へ追放して居ますから、政子とって、親子などは、権力争いのためには、一切、もう関係なかったと思われます。
 正に、鬼のような女ですが、あの戦国時代、生きるためには、仕方なかったと言えます。
 歴史書によれば、大姫が死んだ時、政子は、母として、嘆き悲しんだとありますが、それを読むと、母親としての普通の感情も、持っていた事が分かり、何故か、ホッとします。
 あの時代、上手く立ち回らなければ、政子自身が、あっという間に、殺されていた事でしょう。
 要するに、政子は、あの殺伐たる時代が産んだ、凄まじき女性と言えます。 
 となれば、最後まで生き抜いた政子は、見方を変えれば、優れた政治家だったと言えます。
 まあ、現代こそ、殺し合いはありませんが、別の意味で、やはり、生存競争はある訳で、その意味からすれば、政子の強靱たる生きる力は、賞賛に値します。



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信じるは 我一人のみ 武家社会