上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

文体構成論

 日曜の朝、目が覚めたら、もう7時30分。
 いつもは、7時少し前に起床なので、少し朝寝となりました。
 でも、まあ、早寝遅起きが、私のモットーなので、朝寝できたことは、幸せな事です。
 それで、遅めの朝食となりました。 
 メニューは、即席ラーメンに、タマネギ、ジャガイモ、生ニンニクを入れて、出来上がりです。
 参考までに、朝食は、全て、私が自分で作ります。
 これで、足らない時は、餅を一枚、入れます。
 でも、朝食の量は、腹8分目位が、丁度いいです。
 満腹まで食べてしまうと、脳が通常回転数に上がるまで、時間が掛かってしまいます。 
 少し空腹の時の方が、脳の働きが良いことは、日々の経験的からも、脳科学からも、はっきりと証明されています。
 もう、ずっと前の、イギリスの女性首相だった、サッチャー女史も、
「あたしは、いつも空腹にしています。その方が、精神的に理知的でタフになれます」
 と、言っていましたね。
 二階の書斎に上がり、パソコンを見たら、コメントが3通来ていました。
 すると、その中に、ピチピチギャルから来たと思われる、コメントがありました。
 朝寝モードから、一気に、本気モード、脳の回転数が急上昇しました。
 ピチピチギャルだ、目を大きく開けろ、アクセル全開しろ、でした。 
 よく読むと、彼氏がいる、スロット愛好家の女性でした。 
 因みに、私の言う、ピチピチギャルとは、55歳以下の女性を指しております。
 古稀の私から見れば、55歳は、十分ピチピチなのであります。
 読み終わって、ある一行が、脳にメモされました。
 スペースが少ないのでとっても読みにくいのに←失礼ごめんなさい。
 とっても読み難い・・・、若いピチピチギャルに、こんな事、言われたら、古稀青年はは、もう生きていられない、と思いました。
 それで、ぶ厚いステーキの昼飯食べたら、絶望の余り、近くの利根川に飛び込もうと思ったのですが、取りあえず、止めました。
 と言うのも、この文体構成に於ける、スペース、改行、空白行、かな漢字交じり等の問題は、なかなか奥が深いテーマなので、少し考えてみたくなったのです。
 さて、今、手元に持って来た、明治の森鷗外の本、試しに、223ページを開いてみました。
 すると、28行33字、二段の一ページに、空白行は、一つもありません。
 また、行間も、今の雑誌等と比べると、かなり狭いです。
 しかも、フォントサイズの小さい漢字が、やたらと多いですから、この真っ黒なページを見て、いくら古稀の私でさえも、容易なことでは、この本を読む気には、到底、なれません。
 でも、これを私より上の世代は、普通に読んだようです。
 これもあって、今後は、もう鷗外の本は、殆どの人に、読まれないと思います。
 えっ? 元の本を簡略版に書き直せばいいって?
 そんなものは、もう鷗外の本でも、何でも無い、価値のないものだと思います。
 何故なら、空白行の有る無しにも、著者の作意は、込められているからです。 
 次に、夏目漱石の本。
 開くと、もう、白く明るいページ。
 空白行は、明治期の本ですから、やはり少ないですが、漢字の数が違うのです。
 ひらがなが多いから、それで、ページが明るくなって、かなり鷗外に比べれば、読み易くなっています。
 漱石の本は、今でも、原版のままで、これからも若い人が読めると思います。 
 漱石の、作品に対する深い戦略が、今になって、功を奏しているのです。
 実は、漱石は、自らの作品に対する、読者の反応を詳細に分析し、的確に対応していたのです。
 その分析を元に、常に、内容、文体に、改良を心掛けていたのです。
 読者の事情を、考慮しない著作は、どうしても、その寿命が短くなります。
 なので、ある程度、作者の文体を失わない程度には、読者を優先する必要はあるかと思います。
 とは言え、それは作者の考え方です。
 以前、ある、著名なルポライターが、私は読者のことなど考えていません、と、発言していました。
 書きたいことを書くだけ、と言うのです。
 確かに、沢山の読者がいなくても良いから、自分のテーマ、文体に固執すると言うのもあるかも知れません。
 でも、それだと、執筆する目的、出版する意味の大半が失われます。
 何故なら、読者は居なくても良いと言う、身勝手な思想の基に、書かれた本など、わざわざ買う人は居ないと思います。
 と言う事は、読者がいないという事です。
 読者がいないのであれば、書いても意味がありません。
 これは、執筆者として、明らかに、自己矛盾、自己撞着です。
 書くからには、多くの読者を想定したいのは、全ての著作者の願いだと思います。
 読者は、居なくても良いと言うのは、悪口言えば、単なる負け惜しみです。
 次に、私の好きな、永井荷風。
 ほんの少しですが、時代が新しいですから、漱石鷗外よりは、ページが明るくなっています。
 それに、会話体も多く見られますので、普通に、読む事は出来ます。
 まあ、私自身、荷風が好きだから、読めるのかも知れませんが。
 この荷風の文体でも、私よりも若い世代の人には、恐らく、相当に、読み難い、いや、もう読まないかも知れませんね。
 さて、最近の雑誌を見ると、活字も少し大きくなり、行間も、それに合わせて大きくなっていますので、かなり読み易いです。
 新聞も、昔は、小さな活字で、空白行も無くて、読みずらかったですね。
 今は、新聞記者も若くなりましたから、改行も空白行もあって、読み易くなりました。
 ところで、ピチピチギャルからクレームがあった、私の文体構成ですが、それは、もう変えることは出来ません。
 ピチピチギャルのためには、死んでも変えたい気持ちは、十分にあるのですが、それは、死んだとしても不可能なのです。
 何故なら、この書き方を変えたら、それは、もう、私の文体では無くなってしまうからです。
「文は、人なり」と言う、言葉がありますが、まさに、その通りなのです。
 若い内であれば、変更も可能ですが、ある年齢以上になれば、もう無理です。
 推理作家、西村京太郎氏の文体は、極めて、点が、「、」のこと、読点が多いです。
 もし、点を、そんなに多く打つな、と、氏に言ったら、氏は、小説を書けなくなってしまうと思います。 
 文章は、当然の事ですが、個性でもあるのです。 
 それは、漢字の当て方でも、同じです。
 その人なりの、当て方があります。
 ですから、厳正な国語審議会から、文句を言われようとも、私は、私の感覚で、漢字を当てます。
 例えば、「そんなに、うまく行かない」の「行かない」は、そんな私の、独特の当て方です。
「と言う事もありますが」は、「言う」を当てます。 
「愛人と居ます」も、決して、「愛人といます」とは、私は書きません。
「居」を当てるのが、上州無線流なのです。
 明治の夏目漱石、彼の文体も、独特の当て字が多いですが、あれは、まあ、明治の時代なので、当て方が、まだ、定まって居なかったからです。 
 例えば、「転りと」→ごろりと。利目→効き目。活計→暮らし。一所に→一緒に。
 活計は、さすがに、検討が付きませんね。
 ところで、ムラゴンの多くブログを見ると、やはり、若い人は、沢山の改行を入れていますね。
 三行置きなんて言う書き方も、若い人には、珍しくないですね。
 と言うか、普通位のようです。
 三行置きと言うのは、私には、何か、貧乏性なのか、勿体ない気がします。
 もしかすると、心の中に、原稿用紙か、白紙のイメージがあるのでしょうか。
 デジカメになったら、もうフィルム数は、全く関係ないのに、それでも、無駄取りは、しないように、心がけているのと同じ心境かも知れません。
 さて、以上の考察から、ブログに於いても、改行、空白行がない文体は、殆どの場合、書き手が、かなりの年配者である確率が高いものと、思われます。
 勿論、例外はあるだろう事は、お断り致しておきますが。
 今、その改行無しの、典型的な人のブログを紹介してもいいのですが、さすがに、ご迷惑が掛かりますので、差し控えさせて頂きます。
 この方は、私よりも上、80歳位かと、推察されます。
 ところが、中には、明らかに、十分な年配であるのにも関わらず、意図的か、どうかは分かりませんが、三行置きに書く人も居ります。
 こんな場合は、正しく、例外に属しますから、改行、空白行のみで、その方の世代等を判定するのは、極めて、安易であり、間違いの元です。
 私と同じ位の、70歳位のご婦人なのに、三行置き、或いは、もっと、沢山の改行数で書く方のブログも、よく拝見致します。
 もしかすると、その女性は、実際の歳よりも、うんと若く見せようと言う、戦略なのでしょうか。
 でも、それも、良いと思います。
 若く見せたいと言う、その気持ちは、とても良いことだからです。
 心が老けてしまっては、いやいや、人生、終わってしまうと思います。
 でも、いくら改行数が多くても、そのブログの中に、「君と何時までも」、「白い花の咲く頃」、「青い山脈」、「高校三年生」、「雨に咲く花」、「東京の灯をいつまでも」、「有楽町で会いましょう」、「リンゴ追分」等の、歌が出て来れば、もう年齢は、誤魔化しようがありません。
 となれば、極めて、お節介ではありますが、引用するのは、古い歌は止めて、英語のタイトルなどをお勧めしたいものです。
 いやいや、止めましょう、折角のブログです。
 そんな姑息なことはせずに、好きなように楽しんで書けば、それが最善と思います。
 ブログは、老後の細やかな楽しみなのですから。 
 うーん、それにしても、懐かしい歌を思い出して、一寸、感傷的です。
 これらの歌、ひとつひとつに、私の若い頃の、物語が、みんな、一杯、詰まっているのです。
 歌は、何時だって、恋のBGMですから。  
 一寸、脱線しましたね。 
 文体構成を変えることは、容易には出来ませんが、若いピチピチギャルが、読み易いように、少しは、何とか改善して行きたいなとは、思ってます。
 さて、古稀青年なる存在は、ピチピチギャルには、昔から、非常に弱いみたいです。
 晩年の永井荷風は、いつもストリップ劇場の楽屋で、裸の若い子達に囲まれているのが、至福の時間だったようです。
 もう、性的には駄目だったと思われますが、それでも、踊り子と一緒に居たかったんですね。
 そこに、何とも言えない、悲しい男の業を感じます。


追記
 コメントは、一部だと誤解されますので、段落全部を紹介します。下線部です。
 スペースが少ないのでとっても読みにくいのに←失礼ごめんなさい。
 すごく心に残る魅力的な内容でした。
 冷たいようで、とっても深くて温かい文章です☆生意気すみません。

 と言う事で、実際は、とても有り難い、心温まるコメントでした。



俳句


沢山の 改行しても 無駄なこと