上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

公園の釣り池

 昨日は、友人と会ってから、その帰り道、敷島公園に寄りました。
 平日の公園ですので、余り人影は見えません。
 公園に入ると、すぐ釣り池の側を通ります。
 池の周りには、いつものように釣り人の姿がありました。その数、10人足らずでしょうか。
 もう寒いので、どの釣り人も、ぶ厚い防寒着に身を固めています。
 休日の時は、親子連れなど、若い人の姿も見える事もありますが、平日は、すべて高齢者ばかりです。
 どの人も、黙ったまま、じっと、水面を見つめています。
 中には、起きているのか、眠っているのか、分からない人も居ます。
 もしかしたら、水面を見てはいますが、他の事を考えているのかも知れません。
 見ていても、竿が動く事は、ごく偶にしかありません。
 この池は、キャッチアンドリリースと言って、釣ったら、また、池に魚を、すぐ戻す事になっています。
 だから、釣り人の手元に、魚籠(びく)は、ありません。
 私が子どもの頃は、川で釣った魚は魚籠に入れ、大事に持ち帰り、自宅の池に放したものです。
 退職して、すぐの頃、この公園に来て、初めて釣り人達を見た時、何て意味のない事をして居るのだろう、と思ったものです。
 何しろ、釣って、すぐ池に戻す、その繰り返しの訳ですから、当時の私には、理解不能でした。
 まさに、シジフォスの神話です。
 当時、池の端に居並ぶ釣り人の老人達よりも、退職したばかりの私の方が、かなり若かったものですから、随分と生意気な事を考えたものでした。
「こんな意味のない事をして居るよりも、数学や物理の本を読んでいる方が、ずっとマシだろう。日々、する事がないから、爺さん達、此処で時間潰しをしているんだな。気の毒に」
 ですが、退職して、私も、更に老いを重ねるに連れ、高齢の釣り人達に感じた私の考えは、徐々に修正されていく事になりました。
 じっと、池の端で、魚を釣っては戻す、その繰り返しでも良いではないか。
 その、何処が悪いのか。  
 ある日、そう思いました。
 私が数学や英語の本を読んで、その何処に、釣りと比べて、何か優越した意味があるだろうか。
 何も無い、と思いました。
 老人達にしても、魚は、どうだって良いのです。
 きっと、釣り人達は、微かに揺れる、浮きと水面を眺めながら、過ぎ去った人生を思い起こしているのだと思います。
 その思い出の中に、蘇る、若い頃の自分を懐かしんでいるのかも知れません。
 それなら、それで十分に、幸せな事です。
 他人の時間を、自分の尺度で推し量るのは、もっとも、愚かな行為でした。
 一度きりの人生、人は、皆、それぞれが思うように生きて、死んで行けば、それが最善だろう、と思います。


俳句


釣り人の 竿見つめる目 何見るか