上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

風潮としてのフェミニズム

 シモーヌ・ボーヴォワールの名前を聞いて、すぐに彼女を思い出せる人は、現在、もう殆ど居ないと思うが、私が、若い時は、なかなかの有名人だった。
 1908年生まれで、1986年に亡くなった、フランスの作家、哲学者である。
 と言うよりも、サルトルの妻と言った方が分かり易い事と思う。
 双方、浮気公認と言う、例の契約結婚で、世に話題を提供したこともある。
 この契約結婚からして、ボーヴォワールは、女性として随分と無理な生き方を見せつけるものだな、と思った記憶がある。
 その生き方を見ると、必死に、見せかけの自分を作っているように、私には思えたものだ。
 人生の最後の方で、子供を産まなかった事を後悔していないか、と問われて、
「全然! 私の知っている親子関係、ことに母娘関係ときたら、それはそれは凄まじいですよ。私はその逆で、そんな関係を持たずに済んで、本当にありがたいわ」と、言っているが、果たして、本当に、そうだろうか。
 実は、その答えこそが、最高に、後悔の表現だったと思う。
 その派手な振る舞いからして、哲学者を名乗るよりも、芸能人を名乗った方が、余程、似合って居たと思う。
 しかし、夫のサルトルが、実存主義なる旗を揚げて、一世を風靡していたから、負けずの気持ちもあって、無理な姿勢を取ったのかも知れない。
 1949年、第二の性を発表して、「人間は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言う、有名なフレーズを世に披露した。
 即ち、女性らしさと言うのは、後天的に作られた、社会的な約束事に過ぎない、と言ったのである。
 戦後、間もない時代で、まだ多くの女性に対する制約が残っていたから、ボーヴォワールの、この言葉は、当然の事ながら、当時のフェミニズム運動の強力な推進力となった。
 高校生だった私は、半信半疑であったが、その有名度に押されて、ボーヴォワールの言葉を信じていたように思う。
 男も女も、全く同じに作られている人間なのだ。
 当時、絶対視されていた実存主義と言う、訳の分からない主義に翻弄されていたから、余計に、騙されてしまったのかも知れない。
 その後、学生となり、社会人として働くようになってから、時折、このボーヴォワールの主張について、何度か考察した。
 すると、やがて、大きな疑義にぶつかり、最後には、脳科学の著しい発達もあって、ボーヴォワールの主張は、単なる錯覚、軽率な思いつきに過ぎないと、断定する事になった。
 さて、毎日、私は、午後になると、特に、用事が無ければ、敷島公園に行き、散歩をする。
 その入り口近くには、大きな釣り池がある。
 釣り池の側を通りながら、漠然と釣り人を眺める訳だが、その釣り人達の中に、女性を目撃した事は、一度も無い。
 とは言え、ごく偶にだが、家族連れで来た、小学生の女児は見た事がある。
 しかし、成人女性で、連日、釣り池に来た人は見た事が無い。
 この事実から、釣りに、女性は、あまり興味が無い、と、はっきり言えると思う。
 それは、利根川での鮎釣りでも、女性の釣り師は、今まで一度も、見た事が無い。
 別に、女性に対して、釣りが禁止されている訳では無いだろう。
 となれば、やはり、これは、男女に於ける、行動の違いが、厳然と存在すると言う事だ。
 更に、少々、品の無い例で申し訳ないが、盗撮犯がある。
 新聞等で、連日報道されているが、その盗撮犯が、女性と言うのは、聞いた事が無い。
 全て、盗撮犯は、スケベな、少し羨ましいが、いや、訂正、怪しからん男である。  
 別に、女性が男を盗撮しても良いと思うが、それをしないのは、小型の良いカメラを持っていないからだろうか。
 いや、そうで無いようだ。
 どうやら、生まれつき、女性には、そもそも、男を盗撮をする気が無いらしい。
 もっと言えば、どうも、男の裸自体を、それほどには、見たい気が無さそうである。
 だから、盗撮して、後で、その写真を眺めて、一人で楽しもう、などとは、夢にも思わないようだ。
 となれば、やはり、此処に、男女の明確な違いが存在する事を、誰も否定する訳には行かないだろう。   
 ボーヴォワールは、男女の違いは、後天的、社会的に育てられたものと主張したが、まさか、男にだけ、後天的に盗撮教育をしたから、盗撮犯は男なのだ、と言う事では無いだろう。 
 男と言うものは、何も盗撮の指導を受けなくても、盗撮を自主的に、積極的に、本能的に、すごく楽しんで、やっているのだ。
 それは、まだ小さな男の子でも、本能的に、そうなのである。
 何十年も前の事、私の娘が、7歳位の時か、目の前で、急に、庭でオシッコをした。
 そしたら、側に居た、5歳位の甥が、サッと、娘のところに駈け寄り、何と、オシッコをして居る、彼女の股間を覗き込んだのである。   
 これが、大人であれば、すぐさま、私は、コノヤローとばかり、蹴飛ばし、殴り倒したであろうが、相手は、ほんの子どもである。
 そのまま、当然の事だが、黙って見過ごした。
 甥っ子は、とにかく、「女の子」を見たかったのである。
 だから、正直に、悪びれる事に無く、身を屈めて、オシッコの飛沫を浴びながらも、率直に覗き込んだのである。
 その時、我が娘が、覗き込んでいる甥を、ひどく迷惑そうな顔で見ていたのを、いつも微笑ましく思い出す事が出来る。
 まあ、オシッコの最中だから、娘も立ち上がって逃げる訳にも行かなかったろう。
 それにしても、我が娘、小さかったとは言え、みんなが居たのだから、オシッコを我慢すれば良かったのに。
 ともかく、男とは、生まれながらにして、そう言う事である。
 更に、ダメ押しの例も挙げてみよう。
 雄犬は、散歩に連れて行くと、電信柱辺りに、片足をあげて、尿を振りかける。
 テリトリーを誇示する、マーキングだが、これを雌犬の場合、片足をあげて尿をする事は、絶対にしない。
 片足を上げるのは、雄犬だけである。
 まさか、母犬が、雄の子どもだけに、「ションベンをする時は、片足をあげるのよ」と教え、育てた訳ではあるまい。
 或いは、雌の子どもだけには、「下品だから、女の子は、ションの時、片足をあげてはいけませんよ」と教育したのか。 
 まあ、ボーヴォワールの主張は、好意的に見れば、風潮としてのフェミニズムによる、単なる勇み足と言えよう。
 ごく簡単に論破される事で、今はもう、誰もボーヴェワールの言う事を信じる人は居ないけれども、当時は、かなりのインパクトがあった訳だから、この負の業績は、小さくは無かったと言える。 
 ボーヴォワールの言葉を信じて、男と女は、全て同じなのだ、と思い込んだ人も、少なからず、居たと思う。
 更に、お人形さんの例もある。
 女の子が、お人形さんごっこをするのは、女の子に、お人形さんを与えるからだ、と言う主張がある。
 ならば、実際に、小さな女の子に、お人形さんと、自動車のおもちゃを与えて、確かめてみれば良い。      
 やはり、女の子は、お人形さんの方を選ぶのである。
 お人形さんで遊びなさい、と教育した訳では無いのに、お人形さんを選ぶのだ。
 こうした男女の行動の違いは、当たり前だが、全て脳からの指令が異なっている事から生じる。
 と言う事は、脳に書かれているプログラムに違いがあると言う事である。
 そのプログラムの違いが、行動の違いを生み出しているのだ。
 では、何故、違いがあるのだろうか。
 その違いが生じる理由は、やはり、生殖機能と深く関わっているからである。 
 即ち、生殖を継続する点で、男女は異なっていた方が、明らかに、都合が良いと言う事である。
 
(次回に続く)


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