上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

たらちね讃歌

 母とは中学生になった辺りから、その関係がうまく行かなくなった。
 私が反抗期に入ったからだ。
 それまでは、身体も小さく、可愛かった息子が、言う事を聞かなくなれば、母としても、段々、息子を可愛く思わなくなるのは、当然の事である。
 親だって、一人の人間だから、不快なものは不快だし、面白く無いものは面白く無いのである。
 まあ、それと、母の兄への偏愛もあったから、いずれ、私は、母と反目する運命にあったと言える。 
 とは言え、小さい頃は、12歳位までは、母との関係は、とても良好だった。
 なので、母と私の関係は、母の一生を通して、総合的に見れば、その収支バランスは、十分に黒字だと思う。
 それは、今だから言える事で、母が生きてる内は、いつも恨み節ばかりであった。
 とは言え、小さい頃、母が、母性本能とは言え、私を慈しんでくれた事実は、否定しようも無い確固たる存在である。
 それを否定する事は出来ないでしょう。
 小学校三年位までだろうか、母は、毎晩のように、寝床で昔話をしてくれたものだ。  
 母の昔話は、面白かったから、きっと、私が、毎晩、昔話をせがんだのだろう。
 それで、母は、小さな私が寝付くまで、昔話をしたのだ。
 とにかく、色んな昔話をしてくれた。
 以下は、母の昔話を思い出して書いたものである。
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 ある若い男が、赤城の山道で倒れ、苦しんでいる、若い女を助けて、家に連れて来て介抱した。
 元気になると、若い女は、とても綺麗だった。
 男は、妻になってくれと言うと、女は喜んで承知して、一緒に暮らすようになった。
 若い女は、仕事は何でも早く出来た。
 男が、どうしても動かせない重い荷物も、知らない内に運んでくれた。 
 不思議な事に、妻が寝た蒲団は、いつも少し湿っていた。
 二人は、とても幸せだったが、三年過ぎた時、妻の様子に変化が訪れた。
 何か、いつも憂鬱そうに、夕方になると、北に聳える、赤城の峰を眺めるようになった。
 晴れた夏の日、妻が赤城山に登りたいと言ったので、男は妻を馬に乗せて、赤城山に行った。
 やがて、頂上に着き、妻は、大沼の畔に行きたいと言う。
 大沼の湖畔に着くと、妻は、夫の手を取り、じっと見つめた。
「今まで、大変、親切にしてもらい、本当に幸せでした。このご恩は一生忘れません。でも、今日でお別れしなければなりません。
 もし、私に逢いたい時は、この岸辺で、私の名前を呼んで下さい。
 沖に、大きな白波が立ったら、それが私です」
 男は女を、どうしても離したくないので、涙を流しながらも、しっかりと女を抱き締めました。
 すると、突然、ものすごい竜巻が現れ、沖に大波が立ちました。
「さようなら」 
 妻は、そう言うと、沼に向かって駆け出し、荒れ狂う大沼の中に飛び込んでしまいました。
 あっという間の出来事で、男は、妻を止める事も出来ませんでした。
 男が、じっと、湖を見つめていると、黒い、巨大な蛇が、水面に浮かび上がりました。
 大蛇は、大きな頭を上げて、一瞬、岸に居る男の方を振り返りました。
 その目からは、赤い涙が、大きな粒となって、幾つも幾つも流れ落ちました。
 巨大な蛇でしたが、男は、見ていて、少しも怖くありませんでした。
 それから、大蛇は、さっと身を翻すと、湖の真ん中に向かって、ゆっくりと去って行きました。
 男は、何時までも、湖を眺めていたので、何時しか、湖畔の岩になってしまったと言う事です。
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「女の人は、蛇になったちゃったの?」と私。 
「だから、元々、女の人は蛇だったのね」
「それで、その蛇は、どうしたの?」
「湖のお家に戻って、蛇の親と暮らしたの」
「それから、どうしたの?」
「また明日、話すからね」
 見ると、もう母は、ひどく眠そうな顔をしていました。
 時には、私を寝付かせるための昔話が、とても面白くて、私は、何時までも寝る気になりませんでした。
 ある時、不意に話が止まったので、ふと、母を見ると、母は大きな口を開けて、もう寝ていました。
 日本全国、何処にでもある昔話ですが、母は、この話を、母の父から聞いたと言っていました。
 他にも幾つか覚えていますが、恐らく、母の村の伝承説話だったのでしょう。
 赤城山は、自宅から車で25分位です。いとも簡単に、その頂上に着きます。
 何かの折り、大沼の畔に着き、湖を眺めていると、ふと、母の昔話を思い出しました。
 それで、蛇になった若い女を呼んでみたくなりました。
 美人と会えるのなら、大声で呼ぶ位、大した手間ではありません。
 しかし、肝心の、蛇になった若い女の名前は、いくら考えても、浮かんで来ません。
 仕方ないので、適当な名前で呼んでみました。
 でも、いくら呼んでも、湖に大きな白波が立つ事は、無かったです。
 もっと、しっかりと、若い女の名前を聞いておくべきでした。
 さて、母とは、恐らく、小学校の最後位、随分と遅くまで、一緒にお風呂に入っていましたが、体毛が殆ど無い人でした。
 下腹部だって、ほんの申し訳程度にしかありませんでした。   
 後は、どこにも毛らしきものは、見えませんでした。
 その体質に、私は似たのだと思いますが、逞しき男なのに、腕や脚に毛が生えて無く、青年時代は、とても恥ずかしかったものです。
 でもまあ、下腹部は、男としても、平均的な量の毛が生えてくれましたので、青年時代、母似だけれども、これはまあ、何とか救われたな、と思ったものです。 
 小学四年生の時、母は、小さな日記帳を買ってくれました。
 母は、街に買い物に行くと、必ず、古本屋によって、色々な本を買って来てくれました。
 日記帳は、その年度の新品でした。
 手にした日記帳に、胸を躍らせ、何かを書いて見たくなり、鉛筆書きで、書き始めました。 
 それから、私は、長い間、今も日記を付けているのです。
 でも、毎日、きちんと書くと言う事はありません。日記と言うよりか、その日、感じた事を書く随想日記です。
 単に、日々の記録をメモしたものでは無いです。
 ですから、中学生辺りから、恋の日記が連続する事になりました。
 ごく偶に、昔の日記を読み返すと、昨日の事のように懐かしいです。
 私が死ぬ時は、棺箱に入れて欲しいと思って居ます。
 1980年辺りから、パソコンが使えるようになったので、以後は、全てパソコンに記録しています。
 もし、母が、日記帳を買って来なかったら、私は、日記を付ける事は無かったと思います。  
 母とは、母が死ぬまで、良い関係ではありませんでした。
 しかし、歳を取り、よくよく考えれば、母のお陰で、現在の私は、その人生で、何とか幸せに、日々を送って来られたのです。
 ですから、母の愛情は、古稀の私の中に、今も、綿々と生きているのです。


追記
 母を憎む鬱病の貴女、どうぞ、よく考えてみて下さい。
 貴女の中にだって、母の愛情は、降る星の如く、輝いている筈ですよ。
 貴女が、それに、気付いていないだけです。
 過去の私が、そうだったように。


俳句


大沼の 畔に立ちて 母思う