上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

対極の価値

 夏目漱石と森鴎外は、よく対比される。似たような例は、他にも沢山あるが、卑近な例で言えば、長嶋茂雄と王貞治とかが上げられるかも知れない。
 まあ、厳密には、ともかく、一見して、対照的な存在を感じるからだろう。
 系列としては、夏目漱石と長嶋茂雄、森鴎外と王貞治だろうか。
 かの松本清張は、森鴎外派であったと思う。
 それは夏目漱石に、余り良い批評をしていないからだ。すると、清張は、間違いなく、王貞治派でもあると思う。
 清張は、余りにも、極貧の中で育ったから、何か明るい、派手な存在に、もう無意識的に嫌悪感を感じたのかも知れない。
 それは、自分には無いものを持つ者への曲折した羨望感だったと思います。
 それ故にだと思いますが、一生、共産主義思想を支持していましたね。
 まあ、漱石や長嶋さんの方が明るい感じがしますよね。
 対して、鴎外や王さんは、少し暗いです。
 ところで、私の父は、王貞治派であった。
 だから、よく長嶋茂雄の悪口を言っていたものだ。私は、長嶋派だから、テレビを見ながら、長嶋さんの悪口を言う父は、非常に面白く無かったものである。
 さて、その人を支持する根拠だが、それは、清張さんの例のように、生育歴の影響とか、あとは、要するに、最初の印象では無いかと思う。
 特に、最初に、その人について、余り好ましくない情報を掴んでしまうと、以後、どんどんと、その方向に突き進んでしまうようだ。
 人は、初対面の印象が大事と言われる所以である。 
 とは言え、いくら初対面の印象が良くても、その後、仲違いして、付き合わなくなる人も居るから、初対面で決まる訳でも無い。
 だから、支持する理由は、よく考えれば、それほどの深さは無いように思う。
 さて、夏目漱石と森鴎外は、私が高校生の時に、それらの本を読んだ。併せて、伝記も読んだのだが、その時の印象が、極めて大きく影響している。 
 夏目漱石は、明るい小説を書いた。極めて健康的である。読んでも楽しい。
 また、資料や伝記を読むと、帝大に入学したのだから、明治の時代に於いて、富裕層である事は間違いないが、それでも、鴎外ほどでは無い。
 幾分は、より庶民層に近い。
 それと、漱石の女性関係は、極めて単純である。
 明治の時代であるから、公然と妾を何人でも持てた筈なのに、一人も持たなかった。
 勿論、花柳界で芸者遊びもしなかった。
 鏡子夫人と8人の子どもを作ったが、浮気騒動も無い。
 英国に留学しても、現地で愛人を調達する事も無かった。
 大雑把に言えば、日本から外国に留学して、現地の愛人を持たなかったのは、漱石位では無いだろうか。
 他の著名な男達は、すべて、女を作った。それを責める気は、今は無い。
 若い男なら、そうするしか無いからである。
 健康な男にとって、セックス無しの生活なら、死んだ方がマシと言うものである。
 対して、鴎外はどうか。
 最後は軍医総監になった人だから、明治のエリート中のエリートである。 
 生まれも育ちも、並では無い。
 ドイツに留学して、鴎外の事だから、さぞかし沢山の金髪女と、ヤッタ筈である。
 その内の一人が、遙々日本まで追い掛けてきたが、本人は会わず、親戚や友人が追い払っている。
 何と不人情の事か。
 ドイツでは、さんざん、下半身をお世話してもらったのだから、もう少しは、温か味があっても良かったと思う。
 この辺の鴎外の合理性は、ひどく嫌いです。
 鴎外は、最初の結婚後、28歳で離婚するが、その後、40歳で再婚するまで、12年間、独身である。
 12年間、よくぞ我慢していたものと、高校生の頃は、ひどく訝ったが、勿論、そうでは無かった。
 この間に、花柳界で活躍していたのである。
 それと、妾もいた。何と、その女が18歳の頃からだと言う。何とも羨ましい事だ。
 これなら、独身でも、何の苦痛も無い。
 この妾は、母親も公認で、息子の妾として末永くと言う事で、近くに家まで作ってやり、月々の手当も母親自身が出したという。
 明治の母親は、こうしておく事で、息子が女で人生に躓かないように、気を配ったのですね。いやはや、大した母親です。
 そう言えば、息子が強姦事件を起こした女優がいましたね。あの母親も、早めに女を世話しておけば、強姦事件も起きなかったでしょうにね。
 以上の漱石像と鴎外像を高校生の時に見れば、どちらに好感を持つか、それは明らかですね。
 さて、私は、作家としては、遙かに、漱石の方が上だと思います。
 その一番の理由は、誰にも分かる、容易な言葉で、文章を作っているからです。
 そこに、読者と向かい合う、漱石の心情を温かく感じます。
 漱石の本を読めば分かりますが、漢文の大家、英文学者であった片鱗は、文章の何処にも見えておりません。
 即ち、難解な語は、ありません。 
 対して、鴎外の本は、英語、ドイツ語、漢語で満ちています。
 また、本のページは、行間を空けずに、多くの難解な漢字を羅列してありますから、ページ全体が真っ黒に見えます。
 これでは、到底、現在の人々は読めないでしょう。
 いや、一見して、読む気は起こらないと思います。
 さて、小説は、文学者の研究対象としてのみ読まれ、一般の人に読まれなくなったら、その時点で、小説としての寿命は尽きた、と言えると思います。
 そもそも、小説の本なんて、大学で研究するものでは無くて、楽しんで読むものだからです。 
 それは、物理化学の本とは、まるで違うものです。
 ですから、従来から言われている、大学に文学部は不要だとの論は、実に、正鵠を得ており、極めて妥当な事と、私も思います。
 さて、この歳まで生きて来ると、青かった高校生の時とは考えも変わり、鴎外の女遊びを批判する気持ちは、もう全く無くなりました。
 鴎外は、地位も金も、沢山の女も手に入れ、実に、幸せな人生でした。
 その素晴らしい人生を自己の羨望感で批判するのは、あまり上品ではありませんね。
 それより、私も鴎外さんを見習って、これからも、沢山の愛人を作り、一歩でも、明治の偉人、鴎外の境地に近づきたいと、そう強く思います。
 今、我が人生を振り返ると、漱石の小説は好きでしたが、その清潔なる生き方は、どうも、私の人生とは、対極の存在であったようです。
 ところが、鴎外については、逆で、高校生の時とは違って、今は、その生き方に共感を抱くようになっています。
 私の人生も、実は、鴎外さんのそれと、まあ、同じようなものだったんです。勿論、女の数では、勝負にならないとは思いますけどね。
 だから今は、鴎外も漱石も、同じ程度に好きです。
 但し、鴎外の小説は、一寸、読む気にはなりませんね。



俳句


男とは 女の数で 決まるなり