上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

我が今昔物語

 父母は、共に、大正三年の生まれ。父は7月10日。母は9月29日。
 もう遙かな昔である。
 父と母が出逢う事になったのは、偶然の結果である。まあ、出逢いとはすべて偶然かも知れないが。
 それは、いつ頃の事か、分からないが、恐らく昭和の10年代。
 ある雷の日、二人の男が土砂降りを避けて、大きな木の下に逃げ込んだ。
 で、雨が止むまで、大木の木陰で雨滴を凌いでいた。 
 昔の人は、誰とでも気軽に話したから、やがて二人は世間話に興じたのでしょう。
 雑談してる内に、一人が、私には婚期の娘が居ますと言い、他方も、婚期の息子が居ます、と告げた。
 それなら、一緒にしますか、となって、話はトントン拍子に進んだ。
 昔の結婚は何でも、親が決めてしまったんですね。だから、あの時代、悲劇も生まれた訳です。
 でも一応、形だけの見合いはありました。
 父が母の家に行き、座敷に座っていました。そこへ、母がお茶を持って来ました。
「お茶をどうぞ」
 お茶を出すと、母は、すぐに引き下がりました。
 それで見合いは、お終いです。
 これでは、何も見れないと思います。
 父に依れば、短時間で顔も、よく分からないかったようですが、目が澄んでいたとの事。でも、あんなに背が低いとは気付かなかったそうです。母は、顔を直視出来なかったけど、良さそうな人だと思ったと事です。雰囲気ですかね、感じたのは。
 ジロジロ眺めることは出来なかった。それに会話らしきものも無し。
 まあ、せいぜい、逢ったのは一分間位でしょう。
 これで、当人達が死ぬほど嫌だと言わない限りは、婚姻成立となりました。
 それから、半年後位に、二度目に逢って、結婚式を挙げたようです。
 その間、一度も会っていないとのことです。
 えっ!と思いますが、如何にも遠い時代、まさに、神話のお話ですね。
 その後の父母の人生を見ると、まあまあ、良い人生を送ったと思います。
 なので、この結婚は大成功とまでは、ともかく、かなりの高評価を与えられるものと思います。三人の子供達も立派に成人しましたし。
 除籍簿を取り寄せて調べたら、婚姻届は、昭和15年4月10日。これは戦争直前ですね。父母は、ものすごい時代を生きて来たのです。  
 で、翌年、昭和16年2月19日に、姉が生まれています。まさに、計算通りの結果です。几帳面な父を偲ばせます。
 しかし、戦争という大混乱の中で、子供達三人を育てた訳ですから、その苦労は、筆舌に尽くせません。平和な時代に育った私は、きっと、その苦労の半分も想像出来ていないと思います。
 今、こうして除籍簿を見ていると、父母の苦労を知らないで、反抗ばかりしていた自分が情けないです。
 もっと、早くに、この除籍簿を見ていれば、戦乱の世で、父母が、如何に必死になって、三人の子どもを育てて来たか、その凄まじい苦難が、私にも、ほんの少しだけでも、分かったろうに、と思います。
 今は、毎日、仏壇から書斎に持って来た位牌を拝んでいるので、勘弁して下さい。
 爆弾の雨の中、若い母は私を抱えて、死ぬ思いで走ったことは、前に記しましたが、あれ以外にも、沢山の決死の場面があったと思います。
 戦後は、焼け野原、何もない時代に、よくぞ、子どもを育て上げたものです。
 ただ、母が農家の娘だったですから、食べ物は他の人達よりは恵まれていたのかなと思います。
 当時、町の人が、豪華な着物とお米を交換しに、農家に頭を下げて、お願いに行ったと言う話は、沢山あった様です。
 敗戦で物々交換に戻ったんです。お札は価値がなくなりましたから。
 戦後の粗末な木造家屋でしたから、雨が降ると、部屋中に洗面器やバケツを置いて、雨漏り対策です。
 すると、雨垂れの合奏が始まります。雨垂れの当たり方で、何か音楽みたいな音がするのです。その雨漏りを惨めとは思わず、バケツを持って走り回る母は、楽しそうに見えました。子供心に幸せを感じたものです。
 いつの時代でも、明るい母親は、子どもには無くてはならないものと思います。
 錆びたトタン屋根、破れ障子に、雨漏りのする貧乏屋でしたが、子どもの私は、不幸だと感じたことは無かったです。
 幸せを感じることは、何も無い貧乏時代にだって、あったんです。

  
    
俳句


除籍簿に 遠き戦火が 燃え上がる