上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

我が無線人生<2> カレー御飯


 アメリカ軍の空襲下、母の必死の疾走により、九死の一生を得た私は、終戦後、母の実家で暫く過ごす事になる。朝、出勤する父親に障子の間から、手を振っていた。また、一歳上の従兄弟の女の子に廊下からよく突き落とされた。いずれも母から聞いた話である。よく怪我をしなかったものだ。
 三歳の時に、前橋市の中心部に引っ越した。四歳からの記憶は、相当はっきりしている。何時の頃か、覚えてないが、庭先で手の指を4本出して、それを見つめ、自分は四歳だと自分に言い聞かせた場面を今でも記憶している。
 何か奇妙な記憶だが。
 戦争に負けたから、日本全体が貧乏でした。着る物は全て姉と兄のお古。食べるものも余りなくて、配給の砂糖を舐めた記憶がある。
 肉を食べるのは一年に一度だけ。それも豚の細切れ肉。今では考えられない事。
 お風呂は一日おき位。それも沸き返し。沸き返しというのは、前日に沸かしたお風呂を水を流さず、もう一度、焚いて入るお風呂。だから、もう垢だらけ。
 沸き返しのお風呂に入るのには、要注意だった。静かに入らないと、下から垢がどんどん浮き上がって来たから。
 パンツとシャツは、大体、1週間は穿きっぱなしが普通。洗濯物は、母が手でしますから、その量は知れてます。あのね、洗濯機なんて無いんです。御飯だって、廃材を切って炊いていたんです。炊飯器なんて、勿論、無い。
 姉の頭には、シラミが沢山付いていた。ある日、姉が髪洗うのを側で見ていたら、水が真っ黒になり、その水面に白くシラミがびっしりと浮いていた。髪洗いも三日に一度位だったと思う。シャンプーなんて無かったよ。(今、思い出すと恐怖)
 小学校に入学すると、まず体の消毒をしました。大きな注射器で殺虫剤DDTを襟からシャツの下に散布しました。シラミとノミの駆除です。
 次の日は、回虫駆除のため、海人草(かいにんそう)という薬を飲みました。お腹にいる回虫を殺す訳です。薬をもらい、自宅でも飲んだと思います。
 すると、時には、学校帰りに肛門から回虫が2、3匹束になってぶら下がって出て来ました。死んでます。長さは30センチ位。白い紐みたいでした。仕方ないので、パンツ脱いで自分で引っこ抜いて捨てました。これは、もう何度もありました。
 日本全体が、敗戦後は、ねずみ、ノミ、シラミ、回虫だらけだったんです。 
 当時の御飯は、米と麦が3対7位でした。豊かになるにつれ、その比率は上がって行きました。
 でも、これは良い方だったみたいです。麦だけの御飯を食べている家庭も、少なからず、あったと思います。
 当時のおかずは、梅干し、卵、豆腐、納豆、削り節、漬物など。卵は庭で鶏を飼ってたので、あれば食べる事が出来ました。ですから、毎回の食事は、お米、味噌汁、あとは一品か、二品位です。削り節、漬物が多かったかな。
 なお、参考までに付け加えると、これは現在の私の食事メニューと全く同じです。料理をしない人と一緒になりましたから。
 さて、小学五年生の時、学校でカレー御飯を作る実習授業がありました。それで、先生から、明日、お米を一合ずつ持ってくるように、と言われました。
 家に帰り、母に、一合、それもお米だけで欲しいと強く頼みました。すると、母は家族が食べるお米を袋に入れてくれました。それを手にして、私はほっとしたのを覚えています。
 翌日、私は悠々と学校に行きました。朝、教室で、大きな容器に、一人一人順番に、お米を入れました。すると、ある女の子が入れた時です。
「あれ、米じゃねえぞ、麦だあ、麦入れてらあ、麦だあ」
 見れば、誰でも米と麦はすぐに分かります。女の子はすぐに顔を手で隠して泣き出しました。口の悪いガキどもは、それでも容赦なく、小声で罵りました。
 その女の子の家は、多分、貧乏でお米が買えなかった。毎日、芋か麦を食べていたんだと思います。それで、仕方なく、麦を持って来たのでしょう。
 やがて、カレー御飯が出来たので、みんなで食べました。とても美味しかったです。 でも、当然ですが、肉は入ってないカレーでした。
 もう遠い遠い記憶です。あの麦の女の子が、どんな想いでカレーを食べていたか、はっきり覚えてないです。でも、その泣き崩れた姿だけは、その後、私の心の底に長く残り、今でも昨日のように思い出す事が出来ます。
      
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