上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

和文電信上達法<1>

 和文電信は、なかなか上達しない。それは様々な原因があるが、単純に言えば、符号の数が多い事が、その要因のひとつかなと思います。いろは48文字と記号まで覚えなければならない。英文ならば、26文字と記号である。それに符号構成も和文の方が長いのが多い。
 それと、交信に際して、英文の場合は、殆どがラバースタンプである。英語をアメリカ人と同じように理解できる人は別だが、そうで無ければ、英文による電信は、全て決まり切ったものでしか無い。
 沢山の英文の例文を覚えて、それを選択して送信しているだけである。だから、英文の交信は比較的早くできてしまう。高速に打っても定型文だから、よく聞かないでも推定できてしまう。
 和文電信の場合は、そうはいかない。日本人だから、日本語を各人が自由に使うからである。例えば、交信の最後に、「またよろしくお願いします」もあれば、「よろしくです」もある。お願いだって、「お願いいたします」と打つ人もある。「是非お会いしたいものです」と打つ人もいる。「お元気でご活躍されることを祈念します」もある。
 こうなると、やはり一字一字をきちんと取れないと、正確に受信できないことになる。特に、日本語は最後で意味が逆転することも多いから、いい加減の受信では駄目なことが多い。
 さて、どうすれば、短期間に和文電信がうまくなるだろうか。
 一番の決め手は、和文電信に対する興味を持ち続けることだと思う。と言うのは、和文電信が出来ても、何のメリットも無いので、すぐに興味を失ってしまう人が多いからである。和文電信が出来ても、特に仕事は来ないし、お金も儲からないです。それに、今の日本で和文電信をする人は、主に高齢者に限られており、和文電信をする人の数は年々、減少しています。また、プロの世界で電信は廃止されたことはご存じですよね。
 このまま行けば、アマチュア無線でも、10年後位には、ほんの一握りの人達しか居なくなってしまうと思います。それなら、習うのは止めようという人は、ある意味、正解でしょう。交信相手が居なくなっては、和文電信を習得する意味は、殆ど無いからです。
 それよりか、その時間を英語の原書か何かを読む事に当てた方がよっぽど良いと思います。または、無線機の製作も良いですよね。
 私自身は、もう古稀老人ですので、惚け防止になるかなと思って、和文電信を聞いています。効果のほどは不明ですが。
 さて、和文電信に興味がすごくあるとして、その上達法ですが、それは次回からご紹介したいと思います。
  
    俳句

冬晴れや 天を持ち上げる ケヤキかな

早春や すること無くて 風の音

花びらや 老いゆく肩に 降りかかる

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掃除

 週末の土曜、日曜日になると部屋の掃除をする。書斎と寝室と併せると、かなりの広さがある。寝室は、その昔、娘達が使っていた部屋で25畳位はある。私の部屋はそれより少し小さく、20畳位かも知れない。一週間に一度と言うと、それほどの頻度ではないと思うかも知れないが、実際には毎日するような感覚である。孤独な古稀老人の一週間は実に早いのだ。
 だから、土日が近づくと、何かウンザリする。またか、もうか、と思う。掃除は余り好きでは無い。いや、好き嫌いの範疇にすら存在していない。掃除は全くの関心外である。
 幼少時から掃除に関心を持たなかったのは、亡くなった母親に似たのだと思う。母親は農家の生まれで、その住宅は、もし掃除する気になっても、全部が終わるには三日はかかりそうな、馬鹿でかい家だった。
 だから、きっと掃除が終わる頃には、またゴミが散らかっていた事だろう。そういう家に生まれれば、掃除に対する関心など生まれる訳が無い。
 そんな私が、退職してから掃除をするようになったのは、ある単純な事実からである。
 当時、就寝する時、何か本を読んでから寝るのが、私の日課だった。それで、分からない言葉がある時、すぐ見れるように、ベッドの枕元に1メートル位の板で棚を作り、そこに英和辞典など、辞典類を三冊ほど常置しておいた。
 ある日、分からない言葉を調べようと辞典を手に取った時、その辞典からものすごい埃が舞い上がったのが見えた。不思議なことに、それまで、その猛烈な埃を目撃したことは一度も無かった。多分、その時、スタンドの光が、舞い上がる埃を丁度うまく反射するような角度にセットされていたのかも知れない。
 綿のような埃は私の顔の周りに、相当な密度で浮遊していつまでも離れなかった。思わず、息を止めた。これを吸ったら、忽ち、病気になると思ったからだ。とうとう私は息を止めたまま、ベッドから猛ダッシュで逃げた。隣の部屋まで行ってから、思い切り深呼吸した。
 その当時、掃除は全くしていなかった。だから、ベッドの周りの床には、綿埃の塊が幾つも出来ていた。それに気づいてはいたが、それでも、掃除をする気にはならなかったのだ。しかし、さすがに、顔の周りの空気が全て埃で満たされていると分かると、否が応でも、掃除をしなければ、と思った。まだ死にたくはなかった。
 その掃除だが、まずは特大のモップで床を払う。それから、掃除機で再び埃を吸い込む。モップだけだと、やはり隅等、不十分なのである。その後、テーブル、窓とかをよく絞った雑巾で拭く。これだけであるが、それでも大体、一部屋に30分はかかる。二部屋一時間も掃除をすると、かなりぐったりする。そうじは好きになれないが、埃を吸い込むのは、もう耐えられないから仕方ない。
 実を言うと、今日は土曜である。それで掃除をする日なのだが、なかなか気が進まないので、その前に随筆を書くことにして、少しでも掃除を先送りしている訳である。 
 ところで、老妻も農家の生まれなので、やはりと言うか、家の掃除には全く関心が無い。ただ、時々、一応、掃除をしている時もある。しかし、それは廊下の真ん中を簡単にモップでちょっと撫でて終わりである。掃除は隅の方が大事なんだと、何度も言った筈だが、未だに馬耳東風である。
 老妻は、元陸上選手で鉄のように健康である。編み物、漢字パズル以外は、特に興味はなさそうである。料理に至っては全く関心が無いから、当然、料理は下手以前である。
 それで、老妻には、料理はしないように言ってある。と言うのは、料理をすると、素材の味以上に一層まずくなり、とても食べられないからである。  
 だから、うどん、煮物などの味付けは、全て私がしている。また、ご飯にしても私が炊いた方が、ずっと美味しいので、最近は、ずっと私がやっている。要するに、妻は物事の細かい調整に、全く関心が無いのである。炊飯にしても、その水加減が適当だから、何十年間も水が多すぎて、ビチャビチャのご飯を食べさせられていた。
 余りにもご飯がまずいので、もしかして炊飯器が原因なのかと思って、何回も新しい炊飯器に買い換えた記憶がある。まさか、水加減だとは思いもしなかった。とは言え、その後、水加減を精密にするように、いくら言っても直らなかった。漸く、最近になって、もう69歳だが、釜の線に合わせて水加減をするようになった。一体、何十年掛かったことだろうか。
 冷蔵庫の製氷も同じだ。製氷箱に水を入れた後、その周りも拭かず、乱暴にセットしていたから、水が周辺や下部に零れていた。その漏れた水が氷結し、下の方のスイッチ類の不具合を引き起こし、とうとう前の冷蔵庫は故障してしまった。それで、新しいのを買った時、製氷の仕方をよく実地指導した。要するに、乱暴にやらなければ良いのだが。
 運動選手だったから、腕力が女性としては異常に強い。だから、今までも目覚まし時計だとか、身近な家庭用品を忽ち壊してしまう。蛍光灯なども紐付きのは、買って一ヶ月もすると、紐を切ってしまう。思い切り引っ張るからである。
 水道栓も同じ。これも元運動選手が力一杯閉めるので、中のゴムがすぐに劣化し、二ヶ月もすると、水がポタポタと垂れる状態になってしまう。
 私はポタポタは厭なので、その度にホームセンターでゴム栓を買ってきて修理していたが、いくら注意しても相変わらず、力一杯閉めるので、もう今は修理をする気は無くなった。水はポタポタ垂れているが、老妻は余り苦にしていないようである。余り、いや殆ど、物事を気にしない人なのである。
 掃除が嫌いで料理が下手で、しかし腕力は強い。いい加減、ウンザリするが、古稀を過ぎてから、少し、いや、かなり考え方が変化してきたのだ。
 と言うのは、最近、知り合いが色々と有名な病気になることが多くなった。それらを考えると、伴侶がともかく、鉄骨のように頑健なのは一番有り難い事かな、と思うようになったからである。
 先日、50キロ位のひどく重い旧式テレビを廃棄する時、その運搬作業で、老妻の豪腕が大いに役立った。だから、利点は無い訳では無いと気づいたのだ。まあ、他と比べるのでは無くて、料理は下手、掃除は嫌いで健康だけが唯一の取り柄でも、それで満足すべし、と言うことである。健康こそ宝である。
 それに、老妻の母は97歳まで生きたので、老妻も確実に長生きするだろう。さすれば、私が先に逝くことになるから、こんなに有り難いことは無い。また料理は下手でも、戦後、食べるものもろくに無い時代に育った私は、まずい料理でも耐えられるし、耐えてきた。料理が下手など大した問題でもない。色々と総合的に熟慮すれば、即ち、結果的には私の妻選びは成功だったのである。
 さて、掃除の話から話題がかなりそれてしまった。でも、日頃の不満を色々と述べたので、何か気持ちがすっきりし、すごく元気が出てきた。仕方ない、今日もそろそろ掃除に取りかかるとするか。
  
    俳句

これでいい 何事も無き 我が人生

アンテナに 滴流れて はや梅雨

体重も 古稀に近づき 箸止める

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野良猫のシロ

 母親の影響で私も猫は好きな方に違いない。時々、公園などで野良猫に会った時、私が手招きをすると、見も知らぬ私に、かなりの確率で野良猫が寄って来る。これは猫も猫好きな人間を知っているからである。
 車で10分位の峰公園は退職後の私の散歩場所となった。それ以前は殆ど訪れた事はなかったが、木立が多く夏でも陽射しを気にする事無く散歩できたので、いつしか定番の場所となった。
 退職して二年目位の時だったか、公園広場の排水溝に子猫が捨てられていた。四匹居たから一腹全部である。その体格からして生まれて二ヶ月位か。子猫特有の甲高い鳴き声でギャアギャア鳴いている。その中に全身まっ白の子猫が一匹居たのが目についた。捨てられてどの位か分からないが、ひどく腹が空いているらしく、それこそ死にそうな声で鳴いている。
 可哀想だとは思ったが飼うのは出来ないと思った。現役の頃は忙しく、とても動物を飼う余裕はなかった。それで、もう何十年も生き物を飼っていないので飼う自信がなかったのである。
 翌日からは、散歩のコースを変えて、猫が居る駐車場は迂回する事にした。ついつい、腹を空かした野良猫に目が行ってしまう自分をよく知っていたからである。
 それから、五、六年過ぎたろうか。三月頃、ある日、私が大堤池の傍を散歩で通りかかった時、十匹ほどの猫が群れていた。ここ数年で猫が増えたらしく、此処にも猫の集落が出来たらしい。
 大きい猫もいたが、まだ三ヶ月位の子猫も数匹居た。その子猫の中に全身真っ白の猫が一匹居た。私が近づくと、殆どの猫は警戒し、身を引いて、その場を離れ始めたが、その白い子猫だけは、私が近づいても逃げようとはしなかった。
 それどころか、私がすぐ近くまで来た時、白猫は私の足元に身軽に近づくと、立ち上がったのである。これは頭を撫でて欲しいという猫語のサインである。私が頭を撫でてやると上機嫌である。次は寝転んでお腹を撫でてくれと言う。撫でると、喉を鳴らして大満足である。まだ子供の雄猫である。もしかしたら、この真っ白な子猫は、ずっと前、排水溝に捨てられていた、あの白猫の末裔かも知れない。あの白猫は、この森で生き残ったのだ。目の前の猫は孫か曾孫かも知れない。 
 翌日、私はスーパーで買った猫の餌を袋に入れて大堤沼に行った。今日はどうだろう、居るかな。一見したところ、沼の畔の草地に猫の姿は見えなかった。折角、餌を持って来たので何とか会いたいものだ。そこで、シロ、シロと適当な名前で呼んでみた。すると、近くの草むらが揺れたかと思うと、あの白猫がバネ仕掛けのように飛び出して来たのである。そうして、いつもの様に私の側に来て立ち上がった。
 その様を見て、他の野良猫達も警戒しながらだが、ゆっくりと近づいてきた。しかし、少し離れたところで私を眺め、決して至近距離には来なかった。
 私が餌をとりだし、皿に乗せて草原に置くと、シロは大喜びで食べ始めた。すると、他の猫たちも恐る恐る、かなり近くまでやって来た。しかし、皿は一つしかないので、そこら辺に餌をばらまいてやった。そしたら、どっと猫たちがその餌に群がった。やはりお腹が空いているのである。広大な公園だが、猫たちの食べ物は殆ど無いだろう。
 それからは、シロシロと呼ぶと、シロは一目散に走り寄ってくるようになった。すぐに自分の名前を覚えてしまったらしい。まるで、犬のようであった。餌を与えてから、一月毎にシロは見る見る大きくなっていくのが分かった。
 シロは木の上、野原、草の斜面で過ごしている事が多かったが、いずれの時も、呼べば、脱兎のごとく駆け寄って来た。ほんとに珍しい猫であった。
 梅雨の時は大きな木の下で餌をやった。それでも雨に濡れるので、雨傘をシロに差し掛けてやった。食事が終わると、撫でてもらいたくて草の上に寝転ぶのがいつもの行動である。雨の日でも同じである。暫く撫でた後で、私が立ち上がり、バイバイをしてもシロは暫くは付いて来た。そこで、もう私は帰るから、おまえも帰りなさいと言うと、立ち止まり、私の方をじっと見ている。
 私の言う事を正確に理解できているように思われた。それで、私の後に付いて行こうかどうか、迷っている風だった。少し歩いて振り返ると、シロはまだじっと動かず、私の方を見ている。それはずっと離れて、もう本当に遠くなってもシロは動かなかった。きっと
私が角を曲がり、見えなくなる迄、ずっと見ていたに違いない。
 猫族の多くは、なかなか鋭い感覚を持っているらしい。ある日、呼んでもシロの姿が見えなかったので、餌やりは諦めて、いつものコースを散歩して帰ろうとした。30分ほどして、車が置いてある駐車場の側まで戻って来た時、突然、道端の草むらから、シロが飛び出して来た。
 びっくりした。どうやら、私の足音を覚えているようであった。
 駆け寄ってきたシロの頭を撫でてやると、いつもの場所までシロと引き返した。シロは大喜びで山道を振り返り振り返りしながら、いつもの餌場まで私を先導した。姿が見えなかったが、どこに居たのだろうか。最近、彼女が出来たらしいので、二人でどこかに行っていたのかも知れない。こうして、シロと私の付き合いは、初秋の頃まで続いた。公園に散歩に行くのが実に楽しかった。
 そのシロとの別れは突然にやって来た。ある時、用事で暫く公園に行けなかった。一週間後、いつもの様にリュックに餌を詰め、腹を空かせているだろうと思い、急ぎ足で大堤沼に行った。すると、辺りの景色が一変していた。
 鬱蒼と茂っていた篠藪は、ものの見事に全て刈り取られていたのである。そこは猫たちの隠れ家だったのだが。暫く、呆然とそこに立ち尽くしていた。もちろん、シロが何処に行ったかは全く見当が付かなかった。
 このような除草作業が今まで行われた事一度も無かった。多分、公園整備計画が変更になったのだろう。以後、シロの姿を見る事は二度と無かった。推測するに、大型草刈り機の大きなエンジン音に怯え、公園外に逃げてしまったのではないかと思う。
 その後、草刈り作業が終わり、一ヶ月位経つと、以前の猫たちの一部は戻って来たようだ。あの大きな茶虎も居たから。しかし、シロの姿は見えなかった。
 それから一度だけ、三ヶ月位後だったろうか、ある日、林の中に白猫が居るのを発見した。これはシロかも知れないと思い、シロシロと呼びながら、思わず駆け寄った。シロなら、私を覚えている筈である。ところが、その白猫は身構えると、さっと遠くに走り去ってしまった。
 
    俳句

廃校の 庭に残りし 校歌の碑

幾年ぞ 定めの別れ 落ち葉舞う

この道で 初めて出逢った 銀杏の木

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東京駅の記憶<2>

 東京駅には色んな思い出がある。末の娘とはよく此処で待ち合わせたものである。今でも東京駅に行くと、その雑踏の中から末の娘が手を振って笑顔で駆け寄ってくる姿を見ることがある。勿論、錯覚である。
 その末娘が結婚することになり、結婚式の打ち合わせで義父となる人と初めてお会いしたのも、この東京駅だった。
 待ち合わせ場所は、一番分かりやすいと言うことで、駅の地下街にある、かの有名な銀の鈴にした。どんな人が来るのかと、相当な不安と共に待っていた。良い人でないと、娘の今後が心配である。
 あちこち眺め回していると、やがて、近づいて来た年輩の紳士が不意に問いかけてきた。
「川嶋さんですね」
「そうです。すると、Mさんですか」
 末娘が義父となるMさんに私の写真を送付していたので、それで私がすぐに分かったと言う。それから、近くのレストランに行き、挨拶を交わした。
 どうやら、とても良い人らしいので、私は一安心した。それに加えて彼の仕事が技術系だったので、それもまた安心材料になった。理系の技術に興味を持つ私と多分、色んな話が出来るだろうと思ったからである。
 Mさんは超硬度金属粉の応用が専門とのことで、トンネル工事の大型掘削機のドリル刃等を製作してるらしかった。鋼鉄板にどうやってダイヤモンドを取り付けるのか、いつか是非、彼に聞いてみたいと思った。
 その後、末娘は10月に知多半島で結婚式をした。結婚式の翌日、Mさんが知多半島を案内してくれた。海沿いの道をあれこれ説明しながら、車は快適に疾走した。やがて潮の匂いがする、海浜近くの食堂に着いた。そこはMさんがよく来る店らしかった。その店で食べた茎昆布は大変美味しくて、未だに、その味を鮮明に記憶している。
 知多半島一周の後、それから、わざわざ遠くの名古屋駅まで送ってくれた。駅の駐車場から、背伸びして手を振るMさんの姿を今でもはっきりと思い出す。帰途の新幹線の中で、良い人と出会えてほんとに良かった、と心からそう思った。
 年が明けて正月、Mさんから年賀状が来た。文面には、良縁に巡り会えて大変感謝しております、とあった。しかし、賀状を手にした瞬間、実を言うと、何か不吉なものを感じた。それは文字も絵柄も全て真っ黒な賀状だったからだ。年賀状なら、もう少し明るい色彩があっても良かったと思った。いや、単にプリンターのインクが切れていたのだろう。
 その年の夏が終わり、11月。初秋の気配が漂ってきた。スーパーに行き、私が車から降りようとした時、突然、携帯が鳴った。見ると末娘からだった。
「夫の父が亡くなりました」
 聞いてすぐに意味がとれず、確認を返した。Mさんが亡くなったらしい。ほんとなのか。でも、確からしい。
 電話が終わると、良い人は早く亡くなってしまうのか、と思った。もう掘削刃の事は聞けなくなってしまった。早く聞いておけば良かった。
 Mさんの家は神戸だった。神戸の地は遠く、葬儀には行けなかった。 だから、それ以後、Mさんの弔いが出来ないのが心残りのままであった。
 やっと三年後、年寄り夫婦は意を決して神戸に向かった。神戸の自宅に行き、弟さんに案内してもらって菩提寺に行った。墓は海岸近くの高い山の上にあった。そこからは遙かに広がる瀬戸内海が一望出来た。海の見える丘で彼は永遠の眠りについていた。秋の瀬戸内海を眺めながら、私は彼の一生は偲んだ。きっと、Mさんは早く奥さんのところに行きたかったに違いない。
 聞けば、彼は45歳位の時に奥さんを亡くしている。それから一人で子を育て上げてきたのである。二人の子供達がすべて仕上がり、これから楽をしようとする時の死である。62歳だった。
 神戸の自宅で、彼の弟さんが、いくつか彼のアルバムを見せてくれた。その中にあった彼の奥さんの写真を見た時、私は思わず、声を上げそうになった。
 その女性と、何処かで逢った記憶があったからである。確かに出逢ったことがあると思った。しかし、それが何処なのか、どうしても思い出せなかった。
 恐らく、他人の空似だろう。でも、そうは思えなかった。きっと何処かで出逢ったのだ。今でも、どこかで出逢ったと思っている。それだけに、小さな子供を残して亡くなった彼女の気持ちを思うと、アルバムを持つ手が震えて来た。写真から彼女の声が聞こえてきた。
 Mさんと逢ったのは東京駅、結婚式、その翌日、たった三度だけである。
  
    俳句

二人して 眺めし花や 今何処

亡き人の 眠る丘より 海眺む (弔いに訪れし神戸にて詠む)

時は行く 海辺の丘に 眠る人 (同上)

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東京駅の記憶<1>

 学生時代、東京駅で友人達と待ち合わせたことがある。親しかった友人のMが九州旅行に行かないかと、誘ってくれたのだ。Mとはよくテニスをしたり、また旅行好きなMが旅先から報告をよこしたりすることもあった。だから、すぐに承諾した。 
 暫くして同行のメンバーは、Mの彼女と、もう一人の女の子だと分かった。その女の子はよく知っていたし、良い子だったから行くのが楽しみだった。
 予定が決まり、東京駅で待ち合わせをすることになった。
「じゃあ、川嶋、当日は東京駅で待ち合わせだからな」
 Mの言葉に私は即答した。
「大丈夫、間違いなく行くから」
 当日になり、私は上野駅で降りて、指定されたホームでひたすら待った。10時位になってもM達の姿はどこにも見えなかった。何か事情が生じたのだろうか。当時は携帯電話などは無かった。
「どうしたのだろう? あのMが約束を破る筈は、まず、有り得ない」
 定刻を30分も過ぎてしまうと、もしかしてとは思っていたが、さすがに諦めた。それにしても、折角の切符が勿体ないので、私は一人で九州旅行に行くことにした。
 その時、私はすっかり錯覚していたのである。東京駅と上野駅を間違えていたのだ。その理由は分からない。勝手に思い込んでしまったのだろう。秋葉原には電気部品を買いによく行っていたから、上野駅と思ってしまったのだろうか。
 一人旅の九州は色々な出会いもあって楽しかったが、複雑な気持ちだった。
 大学に戻ってMと会った。会うや否や、開口一番、Mは叫んだ。
「どうしたんだ、東京駅で待ってたんだよ」
 すぐに私は自分のミスに気づいた。しかし、Mは特に私を非難するような態度は見せなかった。いつものように穏やかなMだった。それが却って私の心を苛んだ。今思い出しても不思議なことに、そんなひどいことをしたのに三人に謝罪した記憶が全く無いのである。学生とは言え、土下座をして謝罪するべきものだった。
 Mは、その時の彼女と結婚したから、もし、私が九州旅行に行っていれば、私も同行の女の子と結婚したかも知れない。良い子だったから本当に惜しいことをしたものだ。これが、よく言う人生の岐路だったのだろう。
 50年前のことだが、未だに思い出すと、その度に申し訳なく、胸が激しく疼く。
 さて、大学を卒業してからは会うことも無かったMだが、40歳になる前に、突然、他界した。確か、死因は肺がんと聞いた。タバコか好きだったから、そのせいかもしれなかった。
 棺の中に横たわるMの顔には安堵が漂っていた。いつも穏やかな男だった。二人は、どこかお互いの価値を認めあっていたから、もし私が東京駅に行っていれば、長い友情が生まれていたかも知れなかった。
 葬儀当日、小高い丘に設けられた、広い葬儀場には教え子の女子高生達が沢山来ていた。桜の花と、花にも負けない女子高生達の姿、そんな華やかな季節に、Mがこの世を去ったとは到底、信じられなかった。この晴れ渡る春の碧さ、そんな時にも人は死ぬのだろうか。
 小さな子供を抱き、傍らには父の死を知らぬげに駆け回る元気な男の子、彼の妻の姿が痛ましく感じられた。徹底した保険嫌いの私だったが、翌日、初めて生命保険屋さんに電話をした。
  
   俳句

行き暮れて 今宵の宿は 灯も見えず

老いし人 秋の陽を受け 独り去る

幼き日 秋の陽射しに 寝転びて

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