上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

野良猫のシロ

 母親の影響で私も猫は好きな方に違いない。時々、公園などで野良猫に会った時、私が手招きをすると、見も知らぬ私に、かなりの確率で野良猫が寄って来る。これは猫も猫好きな人間を知っているからである。
 車で10分位の峰公園は退職後の私の散歩場所となった。それ以前は殆ど訪れた事はなかったが、木立が多く夏でも陽射しを気にする事無く散歩できたので、いつしか定番の場所となった。
 退職して二年目位の時だったか、公園広場の排水溝に子猫が捨てられていた。四匹居たから一腹全部である。その体格からして生まれて二ヶ月位か。子猫特有の甲高い鳴き声でギャアギャア鳴いている。その中に全身まっ白の子猫が一匹居たのが目についた。捨てられてどの位か分からないが、ひどく腹が空いているらしく、それこそ死にそうな声で鳴いている。
 可哀想だとは思ったが飼うのは出来ないと思った。現役の頃は忙しく、とても動物を飼う余裕はなかった。それで、もう何十年も生き物を飼っていないので飼う自信がなかったのである。
 翌日からは、散歩のコースを変えて、猫が居る駐車場は迂回する事にした。ついつい、腹を空かした野良猫に目が行ってしまう自分をよく知っていたからである。
 それから、五、六年過ぎたろうか。三月頃、ある日、私が大堤池の傍を散歩で通りかかった時、十匹ほどの猫が群れていた。ここ数年で猫が増えたらしく、此処にも猫の集落が出来たらしい。
 大きい猫もいたが、まだ三ヶ月位の子猫も数匹居た。その子猫の中に全身真っ白の猫が一匹居た。私が近づくと、殆どの猫は警戒し、身を引いて、その場を離れ始めたが、その白い子猫だけは、私が近づいても逃げようとはしなかった。
 それどころか、私がすぐ近くまで来た時、白猫は私の足元に身軽に近づくと、立ち上がったのである。これは頭を撫でて欲しいという猫語のサインである。私が頭を撫でてやると上機嫌である。次は寝転んでお腹を撫でてくれと言う。撫でると、喉を鳴らして大満足である。まだ子供の雄猫である。もしかしたら、この真っ白な子猫は、ずっと前、排水溝に捨てられていた、あの白猫の末裔かも知れない。あの白猫は、この森で生き残ったのだ。目の前の猫は孫か曾孫かも知れない。 
 翌日、私はスーパーで買った猫の餌を袋に入れて大堤沼に行った。今日はどうだろう、居るかな。一見したところ、沼の畔の草地に猫の姿は見えなかった。折角、餌を持って来たので何とか会いたいものだ。そこで、シロ、シロと適当な名前で呼んでみた。すると、近くの草むらが揺れたかと思うと、あの白猫がバネ仕掛けのように飛び出して来たのである。そうして、いつもの様に私の側に来て立ち上がった。
 その様を見て、他の野良猫達も警戒しながらだが、ゆっくりと近づいてきた。しかし、少し離れたところで私を眺め、決して至近距離には来なかった。
 私が餌をとりだし、皿に乗せて草原に置くと、シロは大喜びで食べ始めた。すると、他の猫たちも恐る恐る、かなり近くまでやって来た。しかし、皿は一つしかないので、そこら辺に餌をばらまいてやった。そしたら、どっと猫たちがその餌に群がった。やはりお腹が空いているのである。広大な公園だが、猫たちの食べ物は殆ど無いだろう。
 それからは、シロシロと呼ぶと、シロは一目散に走り寄ってくるようになった。すぐに自分の名前を覚えてしまったらしい。まるで、犬のようであった。餌を与えてから、一月毎にシロは見る見る大きくなっていくのが分かった。
 シロは木の上、野原、草の斜面で過ごしている事が多かったが、いずれの時も、呼べば、脱兎のごとく駆け寄って来た。ほんとに珍しい猫であった。
 梅雨の時は大きな木の下で餌をやった。それでも雨に濡れるので、雨傘をシロに差し掛けてやった。食事が終わると、撫でてもらいたくて草の上に寝転ぶのがいつもの行動である。雨の日でも同じである。暫く撫でた後で、私が立ち上がり、バイバイをしてもシロは暫くは付いて来た。そこで、もう私は帰るから、おまえも帰りなさいと言うと、立ち止まり、私の方をじっと見ている。
 私の言う事を正確に理解できているように思われた。それで、私の後に付いて行こうかどうか、迷っている風だった。少し歩いて振り返ると、シロはまだじっと動かず、私の方を見ている。それはずっと離れて、もう本当に遠くなってもシロは動かなかった。きっと
私が角を曲がり、見えなくなる迄、ずっと見ていたに違いない。
 猫族の多くは、なかなか鋭い感覚を持っているらしい。ある日、呼んでもシロの姿が見えなかったので、餌やりは諦めて、いつものコースを散歩して帰ろうとした。30分ほどして、車が置いてある駐車場の側まで戻って来た時、突然、道端の草むらから、シロが飛び出して来た。
 びっくりした。どうやら、私の足音を覚えているようであった。
 駆け寄ってきたシロの頭を撫でてやると、いつもの場所までシロと引き返した。シロは大喜びで山道を振り返り振り返りしながら、いつもの餌場まで私を先導した。姿が見えなかったが、どこに居たのだろうか。最近、彼女が出来たらしいので、二人でどこかに行っていたのかも知れない。こうして、シロと私の付き合いは、初秋の頃まで続いた。公園に散歩に行くのが実に楽しかった。
 そのシロとの別れは突然にやって来た。ある時、用事で暫く公園に行けなかった。一週間後、いつもの様にリュックに餌を詰め、腹を空かせているだろうと思い、急ぎ足で大堤沼に行った。すると、辺りの景色が一変していた。
 鬱蒼と茂っていた篠藪は、ものの見事に全て刈り取られていたのである。そこは猫たちの隠れ家だったのだが。暫く、呆然とそこに立ち尽くしていた。もちろん、シロが何処に行ったかは全く見当が付かなかった。
 このような除草作業が今まで行われた事一度も無かった。多分、公園整備計画が変更になったのだろう。以後、シロの姿を見る事は二度と無かった。推測するに、大型草刈り機の大きなエンジン音に怯え、公園外に逃げてしまったのではないかと思う。
 その後、草刈り作業が終わり、一ヶ月位経つと、以前の猫たちの一部は戻って来たようだ。あの大きな茶虎も居たから。しかし、シロの姿は見えなかった。
 それから一度だけ、三ヶ月位後だったろうか、ある日、林の中に白猫が居るのを発見した。これはシロかも知れないと思い、シロシロと呼びながら、思わず駆け寄った。シロなら、私を覚えている筈である。ところが、その白猫は身構えると、さっと遠くに走り去ってしまった。
 
    俳句

廃校の 庭に残りし 校歌の碑

幾年ぞ 定めの別れ 落ち葉舞う

この道で 初めて出逢った 銀杏の木

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東京駅の記憶<2>

 東京駅には色んな思い出がある。末の娘とはよく此処で待ち合わせたものである。今でも東京駅に行くと、その雑踏の中から末の娘が手を振って笑顔で駆け寄ってくる姿を見ることがある。勿論、錯覚である。
 その末娘が結婚することになり、結婚式の打ち合わせで義父となる人と初めてお会いしたのも、この東京駅だった。
 待ち合わせ場所は、一番分かりやすいと言うことで、駅の地下街にある、かの有名な銀の鈴にした。どんな人が来るのかと、相当な不安と共に待っていた。良い人でないと、娘の今後が心配である。
 あちこち眺め回していると、やがて、近づいて来た年輩の紳士が不意に問いかけてきた。
「川嶋さんですね」
「そうです。すると、Mさんですか」
 末娘が義父となるMさんに私の写真を送付していたので、それで私がすぐに分かったと言う。それから、近くのレストランに行き、挨拶を交わした。
 どうやら、とても良い人らしいので、私は一安心した。それに加えて彼の仕事が技術系だったので、それもまた安心材料になった。理系の技術に興味を持つ私と多分、色んな話が出来るだろうと思ったからである。
 Mさんは超硬度金属粉の応用が専門とのことで、トンネル工事の大型掘削機のドリル刃等を製作してるらしかった。鋼鉄板にどうやってダイヤモンドを取り付けるのか、いつか是非、彼に聞いてみたいと思った。
 その後、末娘は10月に知多半島で結婚式をした。結婚式の翌日、Mさんが知多半島を案内してくれた。海沿いの道をあれこれ説明しながら、車は快適に疾走した。やがて潮の匂いがする、海浜近くの食堂に着いた。そこはMさんがよく来る店らしかった。その店で食べた茎昆布は大変美味しくて、未だに、その味を鮮明に記憶している。
 知多半島一周の後、それから、わざわざ遠くの名古屋駅まで送ってくれた。駅の駐車場から、背伸びして手を振るMさんの姿を今でもはっきりと思い出す。帰途の新幹線の中で、良い人と出会えてほんとに良かった、と心からそう思った。
 年が明けて正月、Mさんから年賀状が来た。文面には、良縁に巡り会えて大変感謝しております、とあった。しかし、賀状を手にした瞬間、実を言うと、何か不吉なものを感じた。それは文字も絵柄も全て真っ黒な賀状だったからだ。年賀状なら、もう少し明るい色彩があっても良かったと思った。いや、単にプリンターのインクが切れていたのだろう。
 その年の夏が終わり、11月。初秋の気配が漂ってきた。スーパーに行き、私が車から降りようとした時、突然、携帯が鳴った。見ると末娘からだった。
「夫の父が亡くなりました」
 聞いてすぐに意味がとれず、確認を返した。Mさんが亡くなったらしい。ほんとなのか。でも、確からしい。
 電話が終わると、良い人は早く亡くなってしまうのか、と思った。もう掘削刃の事は聞けなくなってしまった。早く聞いておけば良かった。
 Mさんの家は神戸だった。神戸の地は遠く、葬儀には行けなかった。 だから、それ以後、Mさんの弔いが出来ないのが心残りのままであった。
 やっと三年後、年寄り夫婦は意を決して神戸に向かった。神戸の自宅に行き、弟さんに案内してもらって菩提寺に行った。墓は海岸近くの高い山の上にあった。そこからは遙かに広がる瀬戸内海が一望出来た。海の見える丘で彼は永遠の眠りについていた。秋の瀬戸内海を眺めながら、私は彼の一生は偲んだ。きっと、Mさんは早く奥さんのところに行きたかったに違いない。
 聞けば、彼は45歳位の時に奥さんを亡くしている。それから一人で子を育て上げてきたのである。二人の子供達がすべて仕上がり、これから楽をしようとする時の死である。62歳だった。
 神戸の自宅で、彼の弟さんが、いくつか彼のアルバムを見せてくれた。その中にあった彼の奥さんの写真を見た時、私は思わず、声を上げそうになった。
 その女性と、何処かで逢った記憶があったからである。確かに出逢ったことがあると思った。しかし、それが何処なのか、どうしても思い出せなかった。
 恐らく、他人の空似だろう。でも、そうは思えなかった。きっと何処かで出逢ったのだ。今でも、どこかで出逢ったと思っている。それだけに、小さな子供を残して亡くなった彼女の気持ちを思うと、アルバムを持つ手が震えて来た。写真から彼女の声が聞こえてきた。
 Mさんと逢ったのは東京駅、結婚式、その翌日、たった三度だけである。
  
    俳句

二人して 眺めし花や 今何処

亡き人の 眠る丘より 海眺む (弔いに訪れし神戸にて詠む)

時は行く 海辺の丘に 眠る人 (同上)

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東京駅の記憶<1>

 学生時代、東京駅で友人達と待ち合わせたことがある。親しかった友人のMが九州旅行に行かないかと、誘ってくれたのだ。Mとはよくテニスをしたり、また旅行好きなMが旅先から報告をよこしたりすることもあった。だから、すぐに承諾した。 
 暫くして同行のメンバーは、Mの彼女と、もう一人の女の子だと分かった。その女の子はよく知っていたし、良い子だったから行くのが楽しみだった。
 予定が決まり、東京駅で待ち合わせをすることになった。
「じゃあ、川嶋、当日は東京駅で待ち合わせだからな」
 Mの言葉に私は即答した。
「大丈夫、間違いなく行くから」
 当日になり、私は上野駅で降りて、指定されたホームでひたすら待った。10時位になってもM達の姿はどこにも見えなかった。何か事情が生じたのだろうか。当時は携帯電話などは無かった。
「どうしたのだろう? あのMが約束を破る筈は、まず、有り得ない」
 定刻を30分も過ぎてしまうと、もしかしてとは思っていたが、さすがに諦めた。それにしても、折角の切符が勿体ないので、私は一人で九州旅行に行くことにした。
 その時、私はすっかり錯覚していたのである。東京駅と上野駅を間違えていたのだ。その理由は分からない。勝手に思い込んでしまったのだろう。秋葉原には電気部品を買いによく行っていたから、上野駅と思ってしまったのだろうか。
 一人旅の九州は色々な出会いもあって楽しかったが、複雑な気持ちだった。
 大学に戻ってMと会った。会うや否や、開口一番、Mは叫んだ。
「どうしたんだ、東京駅で待ってたんだよ」
 すぐに私は自分のミスに気づいた。しかし、Mは特に私を非難するような態度は見せなかった。いつものように穏やかなMだった。それが却って私の心を苛んだ。今思い出しても不思議なことに、そんなひどいことをしたのに三人に謝罪した記憶が全く無いのである。学生とは言え、土下座をして謝罪するべきものだった。
 Mは、その時の彼女と結婚したから、もし、私が九州旅行に行っていれば、私も同行の女の子と結婚したかも知れない。良い子だったから本当に惜しいことをしたものだ。これが、よく言う人生の岐路だったのだろう。
 50年前のことだが、未だに思い出すと、その度に申し訳なく、胸が激しく疼く。
 さて、大学を卒業してからは会うことも無かったMだが、40歳になる前に、突然、他界した。確か、死因は肺がんと聞いた。タバコか好きだったから、そのせいかもしれなかった。
 棺の中に横たわるMの顔には安堵が漂っていた。いつも穏やかな男だった。二人は、どこかお互いの価値を認めあっていたから、もし私が東京駅に行っていれば、長い友情が生まれていたかも知れなかった。
 葬儀当日、小高い丘に設けられた、広い葬儀場には教え子の女子高生達が沢山来ていた。桜の花と、花にも負けない女子高生達の姿、そんな華やかな季節に、Mがこの世を去ったとは到底、信じられなかった。この晴れ渡る春の碧さ、そんな時にも人は死ぬのだろうか。
 小さな子供を抱き、傍らには父の死を知らぬげに駆け回る元気な男の子、彼の妻の姿が痛ましく感じられた。徹底した保険嫌いの私だったが、翌日、初めて生命保険屋さんに電話をした。
  
   俳句

行き暮れて 今宵の宿は 灯も見えず

老いし人 秋の陽を受け 独り去る

幼き日 秋の陽射しに 寝転びて

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パソコンによる電信送信

  50数年前に、多くの方と同じように、お馴染み9R59とTX88Dで開局しました。10Wでしたが、これでも自作のキュビカルクワッドで、世界中の局と交信できました。電話と電信が半分位ずつでした。その内に、和文電信をやるようになり、電信の面白さに気づきました。英文の電信はラバースタンプで面白味はありませんでしたから。
 30歳を過ぎてからは仕事の方が忙しくなり、段々と無線のアクティビィティは低下していきました。この辺も多くの方と一緒かなと思います。たまに、ワッチする程度で送信することは無かったです。それよりも、明日の仕事の方が心配でした。
 さて、60歳で退職すると、毎日が日曜となりましたので、再びアマチュア無線を活発にやり始めました。暫くは、電話ラグチューを楽しんでいましたが、また和文電信をやりたくなりました。
 それで、押し入れから、埃を被っていた縦ぶれ電鍵を取り出しました。ところが、いざ打ってみると、もうまるで、手が動きません。それ以上に、一分もしない内に肩が凝って来て痛くなりました。これはもう無理と即座に諦めました。
 それならばと、今度はエレキーを試してみましたが、まるで、タイミングが合いません。少しの間、練習すれば、何とかなりそうかなと思いましたが、60歳過ぎて、また練習するのも気が進みませんでした。
 それで、諦めて、暫くは和文電信をワッチするだけとなりました。聞き取り能力は語学と同じで、それほどは衰えては居ませんでした。送信技術の劣化の方がひどかったです。
 ある日、パソコン関係のインターネットを見ていると、パソコンにマイコンをつないで、接点出力が出来る製品が目に留まりました。接点が出力できるのであれば、もしかしたら、電信が送信できるのでは無いか、と閃きました。
 すぐに、そのタートル工業にメールを送り、接点出力の速度について問い合わせました。すると、接点は相当の速さでONOFF出来るとの話でした。これに自信を得て、製品を取り寄せ、色々調べた結果、電信の送信が可能と判断して、その後、一年間掛けて、VBで自動電信送信のソフトを完成させました。
 その後、更に、研究して、外部送信装置は既製品では無くて、市販のマイコンを使って作るようになりました。自作だと、約1500円位で作れるようになりました。既製品は12000円でした。電子工作も再び盛んにやるようになりましたが、マイコンの半田付けには、拡大鏡が必需品となりました。もう老眼で目がよく見えないのです。自作の限界を思い知らされました。
 さて、私自身は、パソコンのキーボードはブラインドタッチで打てますので、キーを叩けば、電信符号が自動で出ます。なので、特別の訓練する必要はありませんでした。ソフトが完成すると、その日から、もう電信を送信できるようになりました。
 でも、パソコンのブラインドタッチが出来ない方だと、流暢な電信の送信は困難でしょう。
 即ち、和文電信を送信するには、いずれにしても、電鍵かエレキー、或いはパソコンのキー操作について、かなりの訓練が必要だと言う事になります。
 現在、和文電信は、7メガか、3.5メガで多く聞くことが出来ます。それでも、昔からすれば、激減です。昔は名人芸の人が居て、驚いたものです。それと、キーイングに特徴があって、最初の一文字を聞いただけで、誰さんだなと分かることもありました。それはJA7の方でしたが、もう十数年も聞いておりませんので、恐らくサイレントキーになられたかと思います。また、バックキーのひどい符号も慣れれば、特に聞きずらくもありませんでした。でも、本当は好きではありません。綺麗な符号の方が長く聞いても疲れないからです。
 電信による交信にも色々な思い出がありますが、一番の思い出は、3.5メガでモスクワの女性、エリーナさんと交信したことです。
 その日、3.5メガをワッチしていると、何か微かな信号が聞こえたのです。Uの符号が聞こえましたが、いつものUAゼロではなく、UA1でした。慌ててコールすると、すぐに応答がありました。交信して、モスクワの局である事、女性である事、に驚きました。10Wで、よくモスクワまで飛んだものです。残念ながら、コールサインは忘れてしまいました。
 もう一つは、WB6UHF局です。この局はコールサインに特徴があったので、よく覚えています。また同じ大学生でしたから、何度も交信しました。ある時は、これから大学に行くところですよ、などという返事が返って来ました。彼も、もう古稀を過ぎてしまったことでしょう。
 
 付記 パソコンによる自動電信装置CWBOARDKKの詳細については、7N2HZXで検索 
   して、私のホームページをご覧下さい。
 
     
 詩
  
 春を想う
過ぎた昔が懐かしく
桜の枝に手をやれば
流れる雲に面影の
浮かびて消えし寂しさよ

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川を見つめる老婆

  小さい頃、よく一族で釣りに行った。一族というのは従兄弟やおじさん達、それに父や兄である。当時は車も無いから、皆、自転車である。
 ある日、鏑川に行った。利根川にも負けない位の大きな川であった。 従兄弟の話では,ここには大きなハヤが沢山居るという。焦る気持ちを抑えながら釣り竿を用意して、期待を込めて川に振りかざした。
 ところが、期待した割には魚は釣れなかった。私の所はどうも場所が悪いらしい。そう思って、あちこち場所を変え、移動した。すると、滝の側ですぐに三匹ほど釣れた。いずれも大きなハヤで、体側に鮮やかな色が付いていた。嬉しくなってそれから一時間ほど頑張ったが、その後はもう釣れなかった。
 昼近くになったので、持って来た握り飯を川岸の草原で食べた。手は川で一応洗った。今思うと、何とも不衛生であるが,昔は余りそんなことは気にしなかった。外で食べる握り飯はひどく美味しかった。これが釣りの大きな楽しみでもある。
 一息ついて、ふと辺りを眺めると、岸から上に続く山腹の途中に大きな農家が見えた。周りを鬱蒼とした竹藪に囲まれて、如何にも古い家である。随分と昔に立てられたに違いない。なおも見ていると、その縁側に一人の老婆がちょこんと座って,鏑川をじっと見下ろしている姿が目に飛び込んできた。
 勿論、遙か遠くだから,とてもその老婆の表情までは分からない。ところが、小学生だった私は、何か知らないが、その老婆の姿に強く惹きつけられた。
 その時の印象は上手く言い表せないが、何か子供ながらも、無性に心に感動を覚えたのだ。きっと、あの人は此処で何十年も生きてきて、この鏑川を毎日見ていたに違いない。そうして、歳を取った今、若い日々を思い起こしながら、この鏑川を眺めているだろう。
 そんな風に感じたように思う。あれから60年近くの年月が流れたが、今でも縁側に座っていた,あの老婆をはっきりと思い出す。
 釣りの方は高校生になってからは、もう行くことはなかった。でも、夏になり、釣り糸を垂れる人をたまに見かけると、あの鏑川を見つめていた老婆の姿が、何故か、いつも決まって蘇ってくるのである。
  
    俳句

背の暑さ 若き夏の日 戻り来ぬ

昼下がり ピアノの調べ 何処より

草の原 寝てみる花火 風涼し

亡き父母の 墓に佇む 夏の夕

久々の 従兄弟の電話 老いし声

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