上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

森の小道

 我が家のベランダに出ると、西方には、雪を被った、真っ白な浅間山が悠然と聳えている。
 大体、10月末辺りから、5月初め位まで、真っ白な衣を纏っている。
 一寸、見ると、形は富士山のように見えるが、方角が違う。
 富士山は、ベランダから真南の方向に位置している。
 しかし、途中に雲取山があるために、残念ながら、我が家からは富士山は見えない。
 でも、我が家から、数キロ西に移動すれば、小さく富士山の姿が見えて来る。
 浅間山は、我が家から見れば、正しく富士山型なのだが、長野県に行ったら、横に長い山だったので、その想定外に、驚いた事がある。
 前橋からは、遙か西の浅間山だが、私は、その浅間高原の中学校に居た事がある。
 それは教員になって、二年目の事。
 北軽井沢の中学校に奉職したのである。
 その辺りからは、もう浅間山が間近に見えて、その雄大さに、改めて、感動した。
 前橋から見る、遠い浅間山は、静かで悠然としていたが、近くで見れば、やはり、活火山であり、荒ぶる様子が見て取れた。
 実際、赴任して、二年目の夏だったか、浅間山は噴火したのである。
 丁度、その時、私は、校庭の駐車場に居た。
 西の方に、灰色の噴煙が、見る見る、勢いよく、高く立ち上って行くのが見えた。
 10キロ弱は離れて居るから、火山弾は飛んで来なかったが、一時間位したら、サーと言う、火山灰の降る、微かな音と共に、車の屋根が真っ白になった。
 北軽井沢は、その浅間山の山麓にあるから、夏は涼しく、冬は、酷寒であった。
 でも、思い出すと、夏も冬も、それぞれの良さがあり、今となれば、全てが懐かしい日々である。
 北軽井沢の夏は、多くの観光客で賑わうが、それは、あっと言う間の事、高原の夏は短く、そうして、すぐに過ぎ去ってしまう。
 それに対して、冬は厳しく長く、何時までも続く様に思えた。
 雪は、それほど沢山は積もらないが、何しろ、雪で、真っ白の浅間山の近くだから、雪の日は多い。 
 とても冷たい雪で、強い風が吹くと、すぐに舞い上がり、吹雪となってしまう。
 それは、万座温泉の雪、パウダースノウと、よく似ていた。
 さて、勤務していた中学校の周りは、畑と鬱蒼とした里山であった。
 ある時、年配の先生と話していたら、地元の大地主の人は、中学校から自宅まで、全部、自分の庭を通って帰る事が出来る、と教えてくれた。
 その人の自宅は、赴任した日、教頭先生が地域案内してくれた時に、訪れたから、知っていた。
 その家は、中学校から、かなり離れていた。推測すると、どれだけ広大な土地を持っているのか、見当も付かない。
 驚くよりも、呆れた記憶がある。
 そんな広い土地を持っていて、一体、どうするのだろうか。 
 敗戦後、GHQの指令により、農地改革は行われたが、山とか、山林には何もしなかった。
 だから、山持ちは、戦前のまま、その所有が看過されて来たのである。
 これは、農地の地主から見れば、大いに不公平な話だった。
 でも、マッカーサーも、そこまで細かく、日本の状況を分析出来なかったのだろう。
 何時だったか、日光の華厳の滝が、個人所有だと聞いた時は、驚いたものだ。
 これも山だから、土地解放が行われなかった例だ。
 そうすると、あの滝を持っている限り、観光客の払う見学料で、永久に食べて行ける訳である。
 親から、遺産を引き継ぐだけで、幸せな人生を送れるとは、何と幸運な人達だろう。
 さて、中学校の卓球部に、私の卓球相手をしてくれる、女子生徒が二人居た。
 勿論、彼女たちの方が上手だが、他に、やる事も無い、山の学校では、卓球は、私にとって、良い運動になった。
 だから、彼女たちが、部活練習が忙しくない時は、お願いして、よく相手になってもらった。 
 A子も、B子も、なかなかの美人で、将来、素敵なお嫁さんになるだろう、と思った。
 彼女たちは、三年生だった。
 来春には、地元か、もう少し都市に近い高校へ進学すると、予想していた。  
 と言うのは、その頃、私の前橋辺りでは、もう殆どの生徒が高校へ進学する時代になっていたからである。
 ところが、三学期になって、A子が就職を希望して居る事が分かった。
 それを聞いて、私は初めて、A子や、この地区について、思いを巡らせた。
 毎日、明るい笑顔で過ごしていたから、そんな事情だとは、少しも気付かなかった。
 B子も、最終的には、就職となった。
 A子の就職面接には、私が付き添って、ある会社に行ったが、内心、気は重かった。
 後で気付いた事だが、学校の近在には、浅間高原開拓地などもあり、経済的に恵まれない家庭が、昭和40年代後半になっても、なお依然として存在していたと言う事だ。
 中卒で就職する事は、もう私の時代限りで、既に終わった事と思って居た。
 私が中学生の時代、戦後の経済復興が十分でなかったから、約半数が家庭の事情で高校には行けなかった。
 でも、その後、10年も経たない内に、私が居た街では、殆どの生徒が高校に進学するようになった。
 でも、それは都市部に限られていたのだ。
 改めて、私は、自分の無知に呆れた。
 仲良くしていた二人だったから、うんと幸せになって欲しいと思って居たが、何か、寂しかった。
 勿論、高校に行かなくても、幸せには成れるかも知れないが、世の中を見れば、そうとも言えない。
 二人とも、成績は良かったのに、高校に行けないとは、どう言う事だ。
 まだ若き教師であった私は、日本社会の在り方に、大いなる疑問を抱いた。
 とは言え、私には、二人を援助する力も何も無かった。
 何とか出来ないものか、考えてみたが、ある筈も無かった。 
 独身だったから、彼女の一人と結婚すれば、お金を上げられるが、二人とは出来ない。
 B子の家は、里山の向こうだったから、下校する時は、いつも校門から、森の小道に入り、そこを一人で歩いて行った。
 その下校するB子の後ろ姿を、私は、職員室から、よく見かけた事がある。
 就職すると決まった辺りから、その後ろ姿が、心無しか、すごく寂しく見えたものだ。
 卒業式が終わると、もう二人の姿は見えなくなった。 
 この学校に赴任して、初めて仲良くなった二人だから、居なくなると、何とも言えない空疎感を感じた。
 まだ若かった私だから、もしかすると、二人の女生徒に恋していたのかも知れない。
 三月の末、春が深まった頃、私は、校門から、その山道に行き、少し歩いて、道の奥を、遠くまで眺めた。
 でも、B子の姿は見えなかった。
 B子は、どんな思いで、この道を通った事だろうか。
 この世を生きて行く事は、並大抵の事では無い。
 二人とも、今は幸せな人生を送っている筈だ、と思うのは、私自身を安心させるための勝手な想像であり、言わば、願いかも知れない。
 でも、二人は、明るくて、とても良い女の子だったから、きっと、いい人に巡り会って、幸せな日々を送っている、と、今も、強く信じている。
 それにしても、この世には、青い鳥が少なすぎる。


俳句


青い鳥 飛ぶ羽も無し 森の道