上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

製品テスト その1

 川端康成の「雪国」を読んだのは、もう随分と前の事、高校に入学した年だった。
 二階の図書館で、窓枠に寄りかかりながら、あっという間に読んだ記憶がある。
 私は、小説を、そんなに、ゆっくりと読む事は無い。
 単調な場面では、大抵、速読、斜め読みしてしまう。
 その辺は、数学や物理の本とは大違いである。数学で飛ばし読みは有り得ない。
 雪国は、暇を持て余す主人公と駒子との、軽い恋愛物語だが、読んだ当初は、取り立てて何も無い日常を、よくぞ、こんな小説に仕立て上げたものだと、多少、川端康成氏に軽蔑した想いを抱いたものだ。
 でも、それは高校生の時であって、それから何十年も過ぎて、我が人生の峠を下る頃になると、川端康成氏に対する見解は、全く異なるものとなった。
 一般に、欧米の小説は、脂肪過多で、ストリーは万華鏡のように、次から次へと波乱万である。
 また、沢山の登場人物は、それぞれの個性が爆発し、その衝突で、鮮やかな色彩の人間模様を縦横に描くことになる。
「風と共に去りぬ」などは、その代表的なものだし、また、ロシア人作家の小説は、登場人物が多すぎて、最後には、何が何だか分からなくなってしまう。
 それは、肉食民族と草食民族の違い、あるいは、大陸と列島の違いかもしれない。
「伊豆の踊子」も、そうだが、弱く儚い存在である人間を透徹した目で眺めるのが、川端康成の小説である。
 特に、筋らしきものすらもない。
 でも、その底に語られているものが、一般的な、多くの日本人の死生観だろうと思います。 
 だから、多くの人に読まれたんだと思います。
 格好良いヒーローも、驚くほどの美女も登場しませんが、川端氏の、どの小説にも、儚い命を持った人間観が織り込まれています。
 それが儚いものと知っていたから、川端氏は、あのように、あっさりと死んで行った訳です。
 本当の川端氏は、その白皙、端正な顔の下に、底知れぬ虚無の世界を持っていたと思われます。
 さて、暫く振りに、芸者の駒子と再会した、主人公の島村は、「この指が君を覚えていたよ」と言います。
 高校一年生だった私は、この行で、一寸、立ち止まる事になります。  
 これは、どういう事か。
 一寸、考えましたが、小説には、大して意味もない事が書かれている事もありますから、きっと、それだろうと思い、そのまま、最後まで読み進み、読了しました。
 さて、この行の意味を理解するのは、それから暫く経った、高校三年生の時です。 
 当時、付き合っていた、一つ年下の女の子が、私の部屋に来ました。
 季節は何時だったか、覚えていません。
 制服の上着を着ていたから、夏が過ぎていた頃と思います。
 色白の肌と紺の制服、今思い出しても、とても綺麗な女の子でした。
 暫く話していたら、若き男女の、自然の成り行きとなりました。  
 初めての事ですから、理性も制御も何も在りません。
 彼女が制止したのか、どうかすらも、記憶にないです。
 ふと、気付くと、揃えた中指と薬指が、第一関節の処で、それ以上、動かなくなりました。
 力を入れてみましたが、これ以上は、出血すると思いました。
 でも、爆発した思いは、ますます燃え盛り、消す事は不可能でした。
 雪国の駒子に、島村が、言った台詞を、この日から、暫く経って、不意に思い出し、その意味を理解することになりました。
 私は、正真正銘の処女に触れたので、この経験は、以来、私の処女信仰となりました。 
 でも、実を言うと、それは、今となっては、少々、微笑ましい事でもあります。
 その後、長い人生で、色んな女の子と付き合う訳ですが、その時に、私の「二本指」が、活躍しました。
 即ち、初めて彼女とホテルに行ったら、必ず、このテストをするのです。
「二本指テスト」です。 
 色んな工場で行う、完成品テストに、一寸、似てますね。 
 何の抵抗もなければ、この女は、処女ではないと、判断します。
 キツキツの場合は、まさしく処女だと、もう大喜びをする事になります。
 きっと、天の神様が、普段の行いが良い私に、貴重なプレゼントしてくれたのだと、勝手な解釈をする訳です。  
 でも、やってみると、キツキツの女性は、滅多にと言うか、殆ど居なかったです。 
 と言う事は、私のテスト法からすれば、当時、付き合っていた、多くの若い女性は、既に、経験者だった、と言う事になります。 
 今は知りませんが、50年も前の時代、若い女性は、それほど、性的に奔放では無かったと思います。
 まあ、中には、強者の女性も居たとは思いますがね。 
 さて、その後、大分経ってから、中年の頃、経験豊かな女性から、女性のオナニーについて、教えてもらう事がありました。
 クリを触るだけでは、どうしても満足出来ないので、色んな物、ニンジン、キュウリ、大根、いや、これは違います、それと、何かの容器等を膣に入れて、オナニーをすると言うのです。
 そう言えば、江戸時代から、張形(はりかた)と言うものが、女性の間で重用されて居たのは有名な事です。
 それを製作する材料は色々だったようです。角とか鼈甲は、特に高価で、安いものは、木製や竹製でした。
 更に、本物感を出すために、中を空洞にして、体温程度のお湯を入れるものもありました。
 やはり、柔らかく温かくないと、本物には思えないからですね。
 この辺、日本の職人技術は、世界最高ですから、江戸時代でも、かなり優れたものが作られた事と思います。
 学生の時、伊豆半島を旅しましたが、その時、確か、下田港近くの、玉泉寺だったと思いましたが、沢山の張形が陳列展示されていたのを記憶しています。
 或いは、寺付属の博物館だったかも知れません。
 目の前にある、その黒光りした、ずしりとした重量感に、思わず、負けるもんかと我が身を握りしめたものです。
 勿論、張形は、洋の東西を問いません。
 世界中、女性は、何処でも同じだという事ですね。
 ヨーロッパでも、昔から、使われており、ディルドと呼ばれています。
 文献を見ると、「penis-shaped device, traditionally made of horn, shell or papier mache; dildo」
 即ち、「チンチンの形をした仕掛け。伝統的に、角、甲羅、または紙粘土で作られる。ディルドと言う」とあります。
 その製作材料が、日本もヨーロッパも同じだったのは、大変に興味深いですね。やはり、良い材料で無いと、女性は満足出来なかったんでしょうね。
 それにしても、ヨーロッパの貴婦人が長いスカートを捲り上げて、ディルドでオナニーしてる様子は、思わず溜息が出ます。
 そんなの使わなくても、是非、私のを、無料で使ってくれれば、良かったのに、と思います。
 さて、その女性から、色々と聞いた後で、今までの私の判断法が、全く間違っていた事を知りました。
 まあ、女の子が高校生位なら、ともかく、要するに、その後は、女性自身の手で、拡張工事が、どんどん行われてしまうと言う事のようです。
 また、そうであれば、最初の時の、女性特有の、妙なる苦痛も軽減されると言う事になりますね。
<えっ、貴女は、初めての時、少しも痛くなかったって?>
<それは良かったですね。毎日、熱心にしてた、オナニーの成果が出ましたね> 
 さて、然らば、肝心の処女判定法は、どうなるのか。
 明確な処女判定法、それは、数千年にわたる男達の悲願でもあるのですが、処女かどうかは、誠に残念ですが、それは、その女性だけが、知り得る事のようです。
 処女膜などと言う、懐かしき伝説もありましたが、昨今の生育著しい女の子では、自然喪失もあるので、処女膜の有無のみでは、何とも判定出来ません。
 それに、また、張形等を入れてオナニーしていれば、自然に剥落してしまうでしょう。
 そもそも、解剖学的に膜と言えるほどのものは、最初から存在もしていません。 
 ですから、処女判定法なんてものは、残念ながら、ありません。
「あたし、処女よ」と言われたら、素直にそれを信じるしか無いのが、哀れな男と言う立場なのです。
 でも、よく聞いたら、「あたし、今日は、まだ処女よ」なんて言う、不届きな女もいますから、もう処女なんて、気にしないのが、正解と言うものです。
 さて、私は、学生時代、ある日、あの雪国の台詞に、現実の場面で、遭遇しました。
   
 (この項続く) 


<あの、どうしても処女の判定法は無いんですか?>
<無い、無い。諦めなさい。童貞の判定法も無いのだから、男女平等、目出度い事と思いなさい>
<そんな事言わないで、何か、ありませんか>
<そうだなあ、まあ、ゴムを見て、これ何なの?と言って、風船だと思って膨らますようなら、間違いなく、その女は処女だ>
<それは、ほんとですか!> 
<だと良いけどね>


俳句


本当は 張形よりも 生が好き