上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

ピチピチギャル

 昨日は、過ぎ行く年の暮れで、少し懐かしき思いに駆られたようだ。
 昨日のブログを読み返してみたら、どうも、恥ずかしい。
 まだ、駆け出しの古稀である。
 そんな年寄りでも無いのに、過ぎた昔を年寄りぶって回想するなんて、アホだね。
 でも、偶には、ふと、しみじみと昔を回想したくなる時もある。
 それに、温故知新と言う言葉もある。
 昔の思い出の日々に、我が身を委ね、そこから、また、新たなエネルギーをもらう事もあるから、過去を振り返るのが、全く無益とは断定できない。
 ほろ苦い思い出からも、学ぶ事は、沢山、あるからだ。
 と言う事で、それほどの老人では無いけれど、今後も、時として、心の赴くままに、青春の思い出を書くとしよう。
 さて、古稀になったが、心身共に、以前と比べて、何も変わっていない。
 今後は、古稀以上で活躍している人達を、よく見習って、我が人生を送って行きたい。
 と言う事で、自民党の幹事長の二階俊博氏を、まずは、上げたい。
 二階氏は、78歳である。
 未だに、現役のバリバリ、安倍内閣の中で異彩を放っているのは周知の通り。
 この人のバイタリティを見習わなくてはね。
 いいね、前向きで元気に活動してる人は、端から眺めていても、清々しいものを感じる。
 生きる目標を持ってる人は、死ぬまで、老人にはならないと言うことのようだ。
 もう一人、最近、西村京太郎氏の自伝を読んだ。
 そしたら、何と西村氏は、87歳である。
 87歳にして、左半身が脳梗塞の後遺症で不自由なのに、新たに、自伝を執筆したのである。
 まあ、87歳位であれば、過去を振り返るのに、古稀とは違って、もう誰も異論は無いだろう。 
 それにしても、87歳とは、思った以上に、能力の衰退は、無いと言う事だ。
 と言うか、老いの衰えは、その本の何処にも発見出来なかった。
 思えば、かの松本清張も、確か、83歳直前まで小説を書いていた。
 80代と言うのは、一般に、思う以上に、活力を有しているようで、改めて驚く。
 今は、100歳時代と言うから、私も、父の95歳まで、元気に活動するつもりだ。
 そのためには、ピチピチギャル探索を目標にして、まずは、頑張る事だ。
 何と言っても、ピチピチギャルは、長生きの薬だからである。 
 ところで、今まで、西村氏の本は読んだ事は無い。
 トラベルミステリーなどと称されているが、もう600冊以上もの本を出しているらしい。
 恐らく、周りに沢山の助手がいて、恰も、工場生産の自動車のように、ものすごい速さで小説を作り出していると推測される。
 しかし、以前から、小説とは、その様に作るものでは無いだろう、との思いを持っていたから、今回、西村氏の自伝を読む迄は、多少、軽蔑した視線を西村氏に送っていた。
 ところが、自伝を読むと、西村氏も、人並み以上に苦労して、懸命に生きて来た事が、よく分かりました。
 決して、安易な人生では無かったんですね。
 そう思って、改めて、作家の西村京太郎を見たら、彼も素晴らしい作家の一人なのだと、彼に関する認識は、180度変わった。
 特に、87歳にもなって、まだ、新しい本を書こうとする、その意欲には、もう脱帽せざるを得ません。
 しかも、脳梗塞の後遺症を抱えながら、です。
 古稀なんて、まさに、青二才ですね。
 さて、話は変わりますが、毎年、我が家では、大晦日、世の他人様と同じように、年越し蕎麦を食べます。
 勿論、それは、老妻の手料理です。 
 ところが、今年は、老妻のアルバイト先が、老舗の料亭なので、そこの蕎麦と寿司を買って、大晦日の晩に食べる事に変更しました。
 まあ、少しでも、老妻の、料理を作る手間を省いてやりたいと言う、私の真摯なる思いやりと言う事ですね。
 私の提案を聞いて、老妻は、破顔一笑、飛び上がらんばかりに喜んだ。
 ところで、これを契機に、いや、好機と言うべきか、年越し蕎麦は、もう、毎年、料亭の蕎麦に切り替えたいと思うので、それを、今夜は、それとなく、老妻に提案するつもりです。
 その方が、私も、毎年、安心した気持ちで、大晦日を迎えられますからね。
 今夜は、老舗料亭の年越し蕎麦、そう思うだけで、胸がワクワクして、今から大いに楽しみです。
 そう言えば、大晦日の年越し蕎麦に、胸がワクワクした記憶は、結婚以来、40年間、一度も無かったと、たった今、気付きました。 


追記
 先日、セクハラについて書いたが、ある女性から、コメントを頂いた。
「セクハラは、何を、では無くて、誰からが、要点です」
 即ち、おっぱいを触るとか、股間や尻を触るとかは、どうでも良い事で、問題は、それをしたのは、誰かと言う事らしい。
 さすが、女性の視点である、と、大いに感心した。
 でも、男からすれば、やはり、触る場所に拘りがあるんですよ。
 何処でも良い訳では無いです。
 恐らく、個々の痴漢氏によって、一番重要な目標が決まっていると思います。
 例えば、私の場合なら、いや、それは本題から外れるので、止めます。
 と言う事で、女性は、例え、痴漢されても、振り返って見たら、その男が、自分の好きな男だったとなれば、その痴漢行動を糾弾する事は、決して無い、と言う事ですね。
 簡単に言えば、私が触れば、警察に、即、通報だが、イケメンならば、もっと触って、と、催促すると言う事だ。
 これは、実は、自然界の動物で行われている、雌による種の選択と言う事である。  
 一見、繁殖行動は、雄の勝手に見えるのだが、実は、周到に、雌の選択が機能していると言う事である。
 だから、発情している雌でさえも、気に食わない雄が近寄ると、逃げて行ってしまう。
 そもそも、セックス時の、あの奇妙な体位は、親切な雌の協力無くしては、到底、構築出来ないから、セックスの完遂権は、実は、雌が保有して居るのだ。
 ラットの雌が、その時に、背を曲げて、雄の挿入を容易にしてやるのも、その一例である。
 要約すると、男のセクハラが犯罪となるか、ならないかの分かれ目は、被害を被った女の判断一つに掛かっていると言う事である。
 なーんか、これでいいのかね、これは変だなあ、とは思うが、仕方ない。
 嘘と、セックスは、神様が女に与え給うた、特権なのである。


<あの、触って、女が気持ち良ければ、セクハラにはならないと思うのですが> 
<うん、気持ち良ければね。でも、ブサメンでは、そもそも、気持ち良く感じてくれないかも知れんなあ> 
<そうすると、ブサメンは、どこまで行ってもアウトですか?>
<そう、ブサメンには不合理だが仕方ない。だから、君のDNAも、いずれは、淘汰される訳だ>
<?>
   
俳句


歳なぞは 忘れて生きる 空っ風