上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

幼い記憶

 小学生の頃は、毎年、暮れになると、まだ若かった父の指揮で、年末の大掃除が始まった。
 でも、戦後の超オンボロ家屋だから、いくら掃除しても、大して変化は無かった。
 まあ、オンボロなのは、我が家だけで無く、隣近所も同じく荒ら家だが。
 赤いトタン屋根、板壁と泥壁、雨戸、板張りの縁側、ガラス戸、障子。
 家の中は全て畳の部屋。
 こうして書いていると、昔の実家が、鮮明に脳裏に浮かんで来る。
 子どもの時の記憶は、古稀になっても、依然として、極めて鮮明である事に、今更ながら、驚く。
 若い時に、勉強したものは、一生、身に付くと言いますが、記憶が強固にして鮮明なんですね。
 それで、一番大きい部屋が8畳でした。
 そこに、子供達三人が寝てました。姉、兄、私と川の字です。
 台所を挟んで、その東の六畳に、父と母が寝ておりました。
 後は、食事をする4.5畳の部屋、他に、風呂場とか、流しがありました。
 トイレは、縁側の突き当たり。
 こんな狭い家に、五人住んで居たのです。
 今、ふと思うと、父母は、どうやって愛の営みをしていたのか、全く不可解です。
 これでは、実に、気の毒と言うか、不可能な環境でしょう。
 まあ、子ども達が幼児の内は、ともかくとして、小学3年生位になれば、もう大変な事だったと思います。  
 今は、狭いアパート住まいの夫婦でも、ラブホテルがありますから、そこに行けば、何の気兼ねもする事無く、汗かき運動は出来ると思います。
 しかし、戦後の時代、そんなものは、何処にもありませんでした。
 ある夜の遠い記憶、それを辿って行くと、暗い電灯の下の光景が蘇って来ます。
 それは私が、小学一年生の時だったと思います。
 当時、私は青白い貧血気味の子どもでした。
 まあ、戦後は、良い食べ物が余り無かったんでしょう。
 それで、時々、貧血気味になり、身体が冷えて、すごく不快な気分になる事がありました。
 その夜も、寝ていたら、急に胸が苦しくなり、頭がボーッとして来ました。
 少しの間、不快さを我慢していましたが、耐えられず、とうとう、父母の寝てる部屋に行こうと思いました。
 もう、かなりの深夜だったと思います。
 襖を開けたら、背後の部屋から、父母の部屋に、電球の光が射し込みました。
 抱き合っていた父と母の姿が見えました。
 恐らく、父と母は、心臓が止まるほど、ビックリしたと思います。
 でも、私は、小学一年生ですから、そんな父母の状態は、全く関係ありません。
 そのまま、倒れ込むように、父と母の間に割り込んで行ったのです。
 すると、冷え切った私の身体を、父と母が懸命に撫でてくれました。
 撫でる事で、体温を上げ、血流を盛んにして、貧血を回復させるのです。
 暫くして、気分が回復した私は、また姉兄が寝てる部屋に戻りました。
 何も分からない子どもでしたけど、本当に、済まない事をしたものです。
 男のセックスに中断は有り得ませんから、その後、父は再挑戦した筈です。
 となると、明け方近く、もう寝る時間は、殆ど無かったと思います。
 父は、次の日、頭が朦朧として、仕事にならなかった事でしょう。
 これが、中学三年生位になっていれば、どんなに気持ち悪くても、父母の部屋に行く事は、絶対、無かった。
 何とまあ、無知な私だった事でしょう。一年生だから仕方ないです。
 それから、中学三年生になって、やっと、私は、あの夜の出来事を理解しました。
 相当に遅すぎますが、昔の中学生は、そんなものでした。
 何しろ、中学一年生になっても、子どもは何処から生まれるのか、知らなかった。
 それは私だけで無くて、クラスの男連中は、皆、そうでした。
 だから、中学三年になって、やっと、初めて、男女は、セックスと言うものを、本当にするのだ、と理解しました。
 それにしても、あの夜以来、恐らく、父と母は、落ち着いてセックスをする事が、出来なくなってしまった、と思われます。
 小さな家屋、鍵の付いていない襖の部屋、これでは、神経衰弱にならないのが不思議な位です。 
 父と母と言えば、もう一つ、印象的な思い出があります。
 それは、父が60歳前後だったと思いますが、母と私と三人で炬燵に居ました。
 私は、だから、30歳位でした。
 その会話の断片は、はっきりと覚えています。
「俺は、したいけど、母ちゃんが、もういいって言うから、弱ったよ」
「あんなもの、もういいですよ、沢山です」
 その時、私が、どんな状態で居たのか、よく思い出せません。
 多分、寝転がって、炬燵で、本でも読んでいたのだと思います。
 ですから、大人の私が、至近距離に居るのは分かっていた筈です。それなのに、父と母は、恥ずかしげも無く、そんな会話をしたのです。
 私にしてみれば、まさに傍若無人の振る舞いで、ひたすら、呆れるだけでした。
 或いは、もう、私が大人だから、何の遠慮も要らないという事で、そんな話をしたのかも知れません。
 いや、いくら好意的に解釈した所で、仮にも、いい歳した親ですからね、今思いだしても、やはり、呆れたとしか、言いようがありません。
 母の事ですが、もう一つあります。
 母は、生け花とお茶の師範をしておりました。
 自宅に、それなりの部屋を設けて、そこで、お弟子さん達に教えていました。
 若い女性が来る時もあれば、母と同じ位の婦人が来る日もありました。
 ある時、年配の婦人達の日でした。   
 まだ、私が学生時代でした。
 立ち聞きをしたのではありませんが、台所に何かの用で来たのか、その部屋の付近に居たのです。
 すると、母達の会話が、自然と聞こえて来たのです。
「あたしの主人は、あたし一人で、もう十分と言ってますよ」
「二回だけど、足らないみたい、あたしは、もう厭、だから、好きにすれば良いと思うの」
 もう学生でしたから、話の内容が断片的であっても、直ちに理解出来ました。 
 なるほど、こんな年配の女性達も、性的な話を、公然と親しき間でするのだなと思ったものです。
 女性は、こんな話をする事はないと、漠然と思って居ましたから、認識を新たにしたものです。
 でも、年配者の会話だったせいでしょうか、不思議と、聞いても冷静でした。
 これが、若い女子学生の会話であったら、私は、すっかり興奮していたと思います。
 会話の断片を聞いた所で、私は足音を忍ばせ、その場を素早く去りました。
 母の声は聞こえませんでした。
 ところで、父も母も、子どもの目からすると、性を除外した、単なる親にしか見えません。
 でも、当たり前ですが、父と母は、やはり男と女だったのです。
 まあ、やがて、事実は理解しましたが、いくら大人になっても、いや、今にして尚も、父と母に、男と女を具体的に、イメージする事は、出来て居ないと思います。
 要するに、父は母は、子どもから見ると、死ぬまで親なのでしょう。
 ところで、アメリカでは、夫婦の部屋と、子どもが寝る部屋は、別だと言うのは、有名な話です。
 ですから、子どもは小さい内から、別の部屋で寝起きします。
 子育ての専門家に言わせれば、子どもに独立心を植え付けるため、だそうですが、よくもまあ、選りに選って、適当な事を言うものです。
 単に、落ち着いてセックスをしたい、ためでしょうが。 
 でもまあ、落ち着いてセックスしたいと言う、夫婦の本音は、よく分かります。
 だからと言って、子どもが、まだ小さいのに、夫婦と子どもの部屋を別にする、アメリカ式の子育てに、私は、賛成しません。
 子どもが小さい内は、日本式で親子が、川の字で一緒に寝る方が、私は、親子の愛情が醸成されると思います。 
 心の距離は、同時に、物理的距離でもあると思うからです。
 さて、年末の掃除について述べるつもりでしたが、例によって、あらぬ方向に行ってしまいました。
 もう長くなり過ぎましたので、それは、また、後の機会に譲りたいと思います。
          
追記
 父と母の会話を呆れたもの、と書きましたが、それは決して、非難めいた意味は、毛頭ありません。
 一種の微笑ましさを感じたと言った方が、より正しいかも知れません。
 この微笑ましさが、ずっと優位を保っていれば、私と母の関係は、あるいは、良好に推移したと思います。


俳句


古稀の身に 急ぐ事なし 年の暮れ