上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

旅芸人一座

 昨日は、我が家より4キロほど上にある、山麓の公園に行きました。
 公園の道を歩いて行くと、色鮮やかに染まった紅葉が、あちこちの木々の枝から、音も無く散っていました。
 ほんの少し、風はありましたが、散りゆくは、その風のせいでは無くて、紅葉自身の決意でしょう。
 命を終えた紅葉が、親の枝に別れを告げて、自ら散っていくのだと思います。
 ですから、時折、風が途切れても、相変わらず、森の中の高い梢から、次から次へと、紅葉が空を舞い降りて行きます。
 偶に、少し強い風が吹くと、路上の落ち葉は、小さな生き物のように、群れをなして、右、左と、素早く動き、まるで、赤、黄色、赤橙色の制服を着た兵隊さんの行進のようです。
 私は、童話の国の王様です。命令一下、足下の兵隊さん達は、行ったり来たり、一糸乱れずに行進しています。
 思わず、その動きが面白く、惹かれたまま、暫く、そこに立ち止まってしまいました。
 なおも歩いて行くと、道の両脇に吹き寄せられた、帯のように続く紅葉、ほんとうに色鮮やかな絨毯です。
 毎年、歩いていた筈なのに、この絨毯に気付かなかったのでしょうか。
 「からくれないに 水くくるとは」と言う、百人一首の歌を思い出しました。
 午後、平日の公園、誰も居ません。
 紅葉に飾られた道は、ずっと遠くまで続き、やがて、遙か先の森の入り口で消えてしまいます。
 その遠くまで続く一本の道を、夏の夕方、小さかった私は、母に手を引かれ、何処までも歩いて行きました。
 あれは、多分、私が小学一年生の頃だったと思います。
 お盆の時期になると、母は生まれ故郷の荒砥村に帰るのが、楽しみだったのです。 
 当時、交通の便は無かったですから、故郷に行く時、母は、まず、高田町の自宅から、上電の駅まで歩きました。
 それから、ローカル線の小さな電車に乗り、田舎の大胡駅まで行ったのです。
 大胡駅を降りると、もう周りは、すっかり田舎の景色でした。
 駅前から、細い田舎道が、延々と続いていました。
 畑や桑畑、雑木林の間を何度も何度も曲がりながら続く道、母に手を引かれる私には、まさに、果てしない道に思えました。
 母と私は、黙って、何時までも歩き続けました。
 片手にお土産を持って歩く母は、もっと大変だった。
 でも、実家に帰る嬉しさで、心は十分に満たされていた事でしょう。
 日は落ちてしまいましたが、夏の事、まだ、空は明るかったです。
 いつも、もう歩けないと思う頃、やっと、森と人家が見えて来ました。 
 母の故郷を思い出す時、この長い長い、田舎道を忘れる事はできません。
 大きな田舎屋に着くと、祖父母が温かく迎えてくれました。
 火が燃えている囲炉裏の周りで、母も私も、祖父母も、叔父さん達も、みんなが車座になって、楽しくお話をしていました。
 小さかった私は、囲炉裏の周りに座っていると、とても安心感を覚えたものです。
 燃える火は、何か人々の心を結びつける働きがあるようです。
 今でも、何かの折りに、燃える炎を見ると、母の故郷の囲炉裏を思い出します。
 もう囲炉裏なんて、かなり年配の人でも、見た事もないでしょうね。
 翌日の夜になると、村のお祭りに行きました。
 毎年、お盆のお祭りが、村の鎮守様、その高台で行われるのです。
 周りは真っ暗な森、一際明るい舞台、旅芸人一座が演じる時代物の劇、それは今でもよく覚えています。
 とは言っても、内容は、小学生ですから、よく分かりませんでした。
 チャンバラをしている様を、よく覚えているという事です。
 上州の村ですから、恐らく、国定忠治か何かの劇だったと思います。
 その旅芸人一座の座長は、まだ若い女の人でした。
 劇が終わると、座長は股旅姿のまま、舞台中央に立ち、御礼の口上を述べました。
「来年、また、お会いしたいと思います。〇〇俊子一行、どうぞ宜しくお願い申し上げます」  
 小さな私でしたが、この口上は、不思議に今ですら、覚えているのです。
 帰りは、もう眠くなった私ですが、人並みに揺れる夜道、母の後を必死に追い掛けたものです。
 途中、大きな沢があり、底の方から、激しい水音がして居ました。
 その真っ暗な底は、何か空恐ろしい感じがして、近くに寄る事はありませんでした。 
 毎年、お盆の時期になると、行っていましたが、小学校を終える頃には、私も他の事に興味を持つようになり、段々と行かなくなりました。
 ずっと後、高校生の時に、一寸、用事で荒砥村の祖父母の家に行きました。
 そしたら、もう、あの旅芸人さん達は来ないとの事でした。
 昔は、ああいう旅芸人一座が、村から村へと廻っていたものでしたが、時代の流れで、それも消えて行ったんですね。
 さて、荒砥村は、母の故郷だったのに、子ども心に、小さな私は、祖父母の家は、あく
まで、祖父母の家と思って居ました。
 ですから、ずっと、その後も、私は、無意識に、母の家だとは思ってなかったのです。
 母は84歳の時、具合が悪くなり、入院しました。    
 でも、なかなか元気で、行くと、病院の中を散歩していました。
 それを見て、私は、これなら、その内、良くなるだろうと安心したものです。
 半月位して、見舞いに行くと、母は、何とベッドに太いロープで縛り付けられていました。
 私を見るなり、母は叫びました。
「おおい、これを外してくれよ」
 これは、どう言う事でしょうか。
 看護婦さんに聞くと、母が余り病院内をウロウロするので、こうしました、との説明でした。
 もしかすると、老人性の躁病だったのかも知れません。
 でも、余りにも、この残酷な措置に、私は、火の様に湧き起こるものを感じました。
 しかし、此処で何か言えば、この意地の悪い看護婦は、また更に、ひどい仕打ちをするに違いないと思いました。
 それで、黙っているしかありませんでした。
 仕方なく、ベットの脇に立っていたら、母の弟、叔父さんが見舞いにやって来ました。 
 すると、母は、弟の叔父さんに、大声を上げて言ったのです。
「〇男よ、あたしをここから出してくれ、泉沢の家に連れて行ってくれ」  
 泉沢は、母の生まれた家です。
 母の言葉を聞いた瞬間、私は、長い間の誤解に気付きました。
 泉沢の家は、祖父母の家では無くて、母の育った家だったのです。
 母は、あの家で生まれ、育ち、暮らしていたのです。
 歳を取り、病気になった母は、もう必死で、あの生まれた家に戻りたかったんですね。
 請われた叔父さんは、困った表情でした。
「そういうわけには行かないんだよ。ここの医者が決めたんだからさ」
 自由を奪われた人間位、悲惨なものは無いでしょう。
 今思いだしても、情けない自分に腹が立ちます。
 さっさっと病院を出てしまえば良かったのです。
 病院に入院した日、あの看護婦が言いました。
「ここは養老院では無いので、なるべく早く出てもらいますからね」
 病気の治療はするが、老人の介護に使われては困る、という意味です。
 それは分からなくも無いが、何とも、温か味の無い病院でした。  
 病院は、金が儲かれば良い訳です。
 だから、今も医者と病院は、大嫌いです。
 母は、その翌年、老人ホームに入所しました。そうして、約一年後、窓辺に見えるアカシヤが満開の頃に、亡くなりました。
 ですから、とうとう、一度も、母は、故郷泉沢の家に帰る事はありませんでした。
 恐らく、母は、子どもの頃を過ごした、あの囲炉裏端に戻りたかったのだろうと思います。
 もう歩けなくなっていましたが、私の車に乗せて、行けば、行けたと思います。
 でも、そうしなかった、仕方ない、そう言う息子だったのです。
 母が亡くなってから、何かの折り、遠く続く道を見ると、母に手を引かれている、小さかった私の姿、また故郷の田舎道を思い出します。
 そうして、暗い鎮守の森、あの華やかな舞台を思い出すのです。
 さて、あの旅芸人さん達ですが、どうしたかなあ、と思って居ました。
 何と、それから40年後、私は、愛知県のホテルで、旅芸人一座と再会する事が出来ました。
 勿論、あの当時の、泉沢の旅芸人さん達ではありません。
 聞きましたら、今は、村では無くて、全国のホテルを廻っているとの事でした。
 見ていると、ステージの上で、ヤクザ姿の女性が、振り回す脇差しが、キラリと光りました。
 その光は、あの懐かしい、鎮守の森の舞台で見たものと、全く同じものでした。



俳句


どこまでも 道は続くよ 田舎道