上州随筆俳句

 長くアマ無線をやってきましたが、一昨年、電信愛好家のためにパソコンによる電信自動送信装置「CWBOARDKK」を作りました。
 本ブログには、アマ無線の活動及び古稀世代の色々な方面について、感じたままの随筆と俳句が書いてあります。
 

御茶ノ水駅

 次女とは、十数年前、御茶ノ水に、ある用事で毎月のように出掛けた。
 次女は愛知から御茶ノ水駅まで、私は、群馬から御茶ノ水駅まで、そうして、待ち合わせた。
 今思えば、父と娘の楽しい時期だったのだ。その時、次女は、まだ結婚していなかったから、用事が済むと、よく父娘で、どこかに出掛けたものだ。
 フランス料理のレストランで食べたり、高架下の海鮮屋でマグロ丼を食べたりした。
 次女も私も本好きだったから、東京駅近くの丸善や、三省堂、紀伊國屋など、色んな店に行った。 
 また、ある日は、銀座に出掛けて、デパート巡りをした。お金があれば、娘の欲しいものを何とか買ってやった。
 娘が、実に、色んな所を知っているので、内心、驚いたものだ。
 きっと、誰かと、前に来た事があったのだろう。
 また、天気がよければ、明大から三省堂の方にまで、ブラブラと歩いて行った。沢山の学生達で、往来は溢れかえっていた。
 夕方、帰りは、東京駅で、新幹線に乗る次女を見送った。
 何度見送っても、やはり、さよならをするのは、ひどく寂しいものだった。
 娘が改札をくぐり、やがて、人混みに消えるまで、手を振り、その姿を追った。
 こんな別れでも悲しいのだから、人生の最後の別れは、想像もつかない。
 不治の病気になれば、もう、最後は、自分が死ぬ事を、きっと、察知するに違いない。
 いよいよ、最後となったら、出来るならば、その時こそ、何事も無いような顔をして死んでいきたい。
 墓は要らないし、お骨は、砕いて白い粉にして、我が板東太郎、利根川に、敷島公園辺りの岸から、流してもらいたい。 
 そうして、私は、この世から消えて行く。後に何も残らない。
 それで十分。
 死んだら、何もかも、この世から無くなってしまうのが、自然というものだ。
 私の葬式は、歌を歌ってもらいたいな。宗教はお断り。
 故郷、庭の千草、早春賦、埴生の宿、学生時代、yesterday once more、
 Annie Laurie、かあさんの歌、里の秋、赤とんぼ、あざみの歌、神田川。
 他にも沢山あるが、詳しくは、ホントに死ぬ時、選定しよう。
 この曲を聞くと、青春時代、可愛かった恋人達の姿が、彷彿としして、脳裏に蘇って来ます。
 実は、この歌の幾つかは、私が若かった時の、恋のバックミュージックなのです。
 恋をしてる時、人は感覚が、すごく敏感になります。
 そうすると、二人で会っていた時、その喫茶店に流れていた音楽を、ずっと覚えているのです。
 勿論、悲しい別れの時に、聴いた音楽も、忘れる事は出来ません。 
 あれは、春、桜の季節だったと思う。
 御茶ノ水のホームで、娘と列車を待っていた。
 これから、いつものように、東京駅まで、愛知へ帰る娘を送って行くのだ。
 電車を待つ間、二人で、医科歯科大学の校舎や、空を見て、無言で立っていた。
 すると、不意に、娘が話しかけて来た。
「その人と、結婚しても良いですか」 
「・・・・」
 返事は決まっていたが、一瞬、遙か下を流れる神田川を見た。
 それは、父と娘の時代が、終わりを告げた瞬間だった。
 夏が過ぎ、秋になった。 
 秋風の吹く知多半島、その海辺近くの教会まで、遙々、老妻と結婚式に行った。
 娘とバージンロードを歩く時、足がもつれた。 
 一つ一つの時間が、私と娘を引き離して行く。
 ハイハイをしていた、あの小さな娘が、段々と、遠く離れて行くのだ。
 私の隣で、小さな手で、パソコンをいじっていた。
 翌日、ホテルの窓から、波静かな海を見た。
 別れと言うのは、そっと静かにやって来るものなのだと知った。
 華やかなパーティなのに、私には、遠い音楽にしか聞こえなかった。
 結婚して、二年間は、よく来てくれた。でも、三年もすると、もう来なくなった。
 それは予想していた事だけど、でも、予想していなかった事だ。
 親子は、アフリカのライオンのように、やがては、互いに反対方向の、遠い地平線の彼方に去って行くものなのだ。
 仕方ない。それが人間。
 今は、次女が居た大きな部屋に、私が起居している。
 部屋のあちこちに、まだ次女が読んだ本や、生活用品などが、すごく沢山置いてある。
 次女が読んだ漫画本は、家を建てる時、特注した作り付け本棚の全てを占領している。
 何冊あるか、見当もつかないが、恐らく数千冊はあると思う。
 その他、大学を卒業した年に、送って来た20個位の段ボールが部屋の隅に積んである。
 去年だったか、老妻が、余りにも多くの荷物が置いてあるので、それを次女の家に送りましょう、と言った事があった。
 確かに、何時までも、荷物を、この家に置いておく訳にも行かないかも知れない。私達も、やがては、この家を去る日が来るのだから。
 でも、それは、まだ先の事だろう。  
「まだ、いいだろう。この家は、娘の家なんだから、置いてあっても、別に構わないじゃ無いか」
 私が、強く反対すると、老妻も、やがて同意した。
 荷物が一つも無くなったら、もう本当に、次女は、この家から居なくなってしまうのだ。 
 私が死んでから、娘の荷物は片付ければよい。
 どうせ、老妻よりも、私の方が先に死ぬのだから、そうしてもらいたい。
 鉄製の老妻は、間違っても先には死なないだろう。
 でも、この大きな家に一人残った老妻は、毎日、一人で、どうなるのだろうか。
 蛍光灯の交換も、電気製品の修理も、庭の枝切りも、水道のパッキン交換も、老妻には出来ない事だ。
 すると、家中の水道から、水が、ポタポタと落ちる事になる。
 仕方ない。その時は、かなり遠いけれど、天国から、馳せ参じるとしよう。
 今年の大晦日も、お正月も、娘は来ないらしい。
 何の連絡も無いから。
 でも、No news is good news.である。
 便りが無いのは、良い知らせである。
 そう言えば、私も、親の家には、余り行かなかったなあ。  
 となれば、我慢するしか無い。
  


俳句


年の瀬に 我が家は何も 声は無し